著者
柳澤 伸一
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.57-65, 2005

通説によれば、ブルゴーニュ戦争(1474〜77)は、スイス誓約同盟が、強力な軍事力を以ってヨーロッパの列強に伍す契機となり、神聖ローマ帝国からの独立に向けて土台を築いた事件とされる。しかし、誓約同盟は、対戦相手、ブルゴーニュのシャルル突進公を「西洋のトルコ人」と呼び、この戦争を、トルコの脅威からキリスト教世界としての帝国を守る十字軍の一環と位置付けて、帝国を守る使命を負うドイツ国民の一員として戦ったのである。このように、ブルゴーニュ戦争期のスイスに、帝国と帝国を担うドイツ国民とに帰属するとの意識を認めうるとすれば、この戦争をスイスが帝国から独立する趨勢の中で理解しようとする通説には、見直しが必要になる。また、誓約同盟が、ドイツ国民の中で、領邦君主のいない共同体的な国家の形成という独自な歴史を歩んできたことは確かだとしても、誓約同盟の指導層は、自分たちのことを、神に選ばれた正当な支配者という点で、領邦君主をはじめとするドイツの他の等族と変わるところがないとも意識していたのである。
著者
柳澤 伸一
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.31-39, 2006-02-28

通説は、スイス誓約同盟が、1499年のシュヴァーベン・スイス戦争に勝利することで、神聖ローマ帝国から事実上独立できた、とする。皆川の近著も、この通説を踏襲している。すなわち、誓約同盟のベルン市の一市民、レープリンがシュヴァーベン同盟のウルム市に対して行ったフェーデを例証として、帝国から独立した誓約同盟と帝国内のシュヴァーベン同盟との間には、帝国の司法の場を含めて、いかなる共通の裁判権威も存在せず、紛争を解決するには、政治交渉か暴力の道しか残されていなかったと断じ、両者の関係を国際関係と結論付けるのである。しかし、誓約同盟とシュヴァーベン同盟の間にいかなる共通の裁判権威もなかったと決め付けることは早計である。というのは、皆川が論拠としているレーブリン家のフェーデ自体、仲裁裁判によって解決の道筋を付けられたこと、1495年以降に誓約同盟に加盟した諸邦とその市民の場合、長く帝国最高法院を免れなかったこと、属邦の場合、自己の存立を確保する上で帝国最高法院に依拠し、その維持費の支払いにも進んで応じたことを確認できるからである。また、両者の問では、対立性よりも共通性の方が目立った。というのは、1499年の戦争を除けば、平和共存が常態だったし、帝国都市が本質的な構成部分であり、その寡頭化とオーブリッヒカイト化が進行するという特徴が共通するからである。