著者
梅本 信也/山口 裕文
出版者
大阪府立大学
雑誌
大阪府立大学大学院農学生命科学研究科学術報告 (ISSN:13461575)
巻号頁・発行日
no.54, pp.41-47, 2002-03-31

和歌山県紀伊大島では, 江戸時代以来, 半農半漁が営まれてきた。ここでは生活を支える重要な植物資源としてイネ科のススキMiscanthus sinensisとチガヤImperata cylindricaが共に利用され, 持続的に保全されてきた。両草本の利用と保全的管理の関係史は以下のようにまとめられる。(1)江戸期から明治前期:江戸時代には上方と江戸とを給ぶ菱垣廻船の風侍港として紀伊大島は栄えていた。明治前期には, チガヤが船舶に欠かせない防水シートとして編まれて販売された。 (2)明治後期から昭和30年代前半:チガヤは生業に欠かせない防水シート, 農薬用の「ふご」, 海苔乾燥用のスノコおよび葬儀および仏事用庇いとして利用された。これらは「とましぼた」と呼ばれる編み機を使い, 女性遂によって製作された。島内の耕地周辺にはチガヤ草地が入念に管理され, 必要な量を供給した。一方, ススキはそれほど多用されなかった。(3)昭和30年代から昭和末期:ビニールシートの普及によって, チガヤシートの利用が激減した。また, 徐々に儀礼が簡素化され, チガヤ利用が減少した。湿田も続々と放棄され, 稲わらの供給が低下した。一方, この頃から暖地花卉弁栽培が盛んとならだため, 農業資材としてススキの需要が高まった。そこでススキ草地の利用が始まった。(4)昭和末期から平成期:花弁栽培とキンカン栽培への傾斜の結果, ススキがさらに必要になった。従来のススキ草地に加えてススキ移植栽培も始まった。チガヤの冠婚葬祭利用はさらに減少した。
著者
梅本 信也/山口 裕文
出版者
大阪府立大学
雑誌
大阪府立大学農学部学術報告 (ISSN:1344848X)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.25-31, 1999-06-15

京都大学理学部(KYO), 東京都立大学牧野標本館(MAK)と国立科学博物館(TNS)および中華人民共和国の中国植物科学院(PE)と南京大学(N)の標本室に保存されているタカサブロウ属(キク科)の〓葉標本301点と各国植物誌におけるタカサブロウ属の分類学的記述, および笠原(1974)と笠原・武田(1978)の雑草の種子と果実に関する考古学的研究におけるタカサブロウ属にかかわる成果を検討し, タカサブロウEclipta thermalis BungeとアメリカタカサブロウE.alba(L.)Hasskarlの日本への帰化時期と帰化様式を推定した。タカサブロウは, 植物地理学的には東アジアの湿潤温帯部に本来の分布域を持ち(Tables 2,4), 稲作とともに日本にもたらされ, 少なくとも弥生時代には日本の低湿地に分布した史前帰化植物であり(Table 3), 一部は近代の物流拡大に伴って再導入されたと考えられた(Fig.1)。一方, アメリカタカサブロウは, 新世界の北・中米に本来の分布域を持つコスモポリタン種であり(Table 4), 日本へは第2次世界大戦とその終了にともなって1948年以降に軍事散布された(Fig.1;Table 1)と考えられた。