著者
森田 耕喜
出版者
国際医療福祉大学
雑誌
国際医療福祉大学紀要 (ISSN:13424661)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.79-88, 1998-12-25

ハイデッガーの『存在と時間』における「死」の概念の分析が本稿の目的である。「存在の意味への問い」は「現存在」という自らの存在に自らの関わり得る特殊な存在者=人間存在によって遂行される。「世界-内-存在」とあり方で「世界」が「開示」されている「現存在」は、自ら発光する光源、事象が明るみに出される場、人間と「世界」との関係が照射される地平と言える。「世界」の開示性において、常に既にそこへと投げ込まれている「情態性」と、そこで開かれている「可能性」としての「了解」に基づいて、現在と未来という「時間」が浮上する。しかし、「現存在」は自らの様態を「気遣い」ながら、その本来的な可能性を回避し、「死」の「確実性」と不確定性を覆い隠して日常性に埋没し、「頽落」している。これに動揺を与えるのが「不安」であり、その対象は「世界-内-存在」そのものである。「現存在」の「存在」は「全体」として捉えられねばならないが、それは自らの終わりとして「全体」を完結させる極限としての「死」に関係する。「死」は「現存在」にとって「最も固有の、没交渉的で、追い越しえない可能性」としてある。
著者
森田耕喜
出版者
国際医療福祉大学
雑誌
国際医療福祉大学紀要 = Bulletin of International University of Health and Welfare (ISSN:13424661)
巻号頁・発行日
no.1, pp.29-42, 1996-08-31

死についての哲学的洞察は、哲学がこれまでどのように死を問うてきたかという哲学史的問題へと我々を向かわせる。死とは何かという問いが、古来、哲学者達にとって根源的であり続けてきたのは、人間が本質的に死という未来によって限定された存在であるからである。ヘーゲル哲学における死の概念の考察が本稿の目的であるが、最初に死の概念について歴史的に概観し、次にヘーゲルの初期論稿と『精神現象学』における存在概念として特徴づけることによって、ヘーゲル哲学において生命と死の概念がもつ意味を考察する。初期論稿において生命は世界の存在概念として特徴づけられ、その存在性格が愛による運命との和解という初期思想の根本概念を規定している。「意識の経験の学」としての『精神現象学』に至って、生命は自己意識として捉えられ、生命は精神の生命となる。その際、死は生命の終わりでもなく、生命の対立概論でもなく、生命に内包され再生と新たな生命創造の契機であることが明らかになる。ヘーゲル哲学を含め近代西欧哲学はデカルトにより発見された「我思う」の自我、即ち、意識の哲学であるが、生命と死の概念についても、それが精神としての生命であり、意識の死であることが結論づけられる。Diese vorliegende Arbeit ist ein Versuch, den Begriff des Todes in der Hegelschen Philosophie aufzuklären. Das Problem des Todes oder die Frage nach dem Tod war immer wieder das bedeutendeste Problem für alle Philosohen, weil das Sein des Menschen wesentlich vom Tode beschränkt ist. Wollen wir zeigen, warum es sinnvoll ist, philosophische Betrachtungen über Tod anzustellen, so müssen wir zunächst erklären, wie Philosophie bis heute nach dem Tode gefragt hat.IN dieser Arbeit zuerst verblicken wir historisch und philosophisch den Befriff des Todes. Veispiel, da die Seele unsterblich und der Tod die Trennung von Leib und Seele sei. Für Decartes bedeutet der Tod des Menschen nur das Ende der automatischen Maschine.Dann wollen wir den Begriff des Lebens und Todes in Hegels Philosophie in Betracht ziehan. In den Hegels Theologischen Jugendschriften bezeichnet das Leben das Wirkliche d.h. die Weise des Sein. Auch in Phänomenologie des Geistes wird das Leben als Seinsbegriff klar.Seit Decartes und Kant könnten wir sagen, da Subjekt der neuzeitlichen Philosophie in anderen Worten, Vermittler Bewußtsein ist. SO in diesem Sinne ist der Tod des neuzeitlichen Menschen der Tod des Bewußtseins.
著者
森田 耕喜
出版者
国際医療福祉大学
雑誌
国際医療福祉大学紀要 = Bulletin of International University of Health and Welfare (ISSN:13424661)
巻号頁・発行日
no.2, pp.21-30, 1997-08-31

近代の合理主義思想は、存在のロゴスともいうべき神の理法がこの世界を貫徹し、神が創造したこの世界と人間とは神の一部を共有しているから、人間理性は世界の理性的法則を認識可能となるよう保証されているというものである。こうした人間の合理主義的理性は、近世的な自然科学思想や技術的発展に支えられているように見えるが、17世紀以来の思想家たちが腐心してきたのは神の存在と霊魂の不死性を証明することであった。デカルトの二元論は心身関係に決定的なものとなったが、その後の哲学思想がこの問題とどのように向き合ったかを検討することで、死の概念について考察する。カント哲学において、思弁的理性がその限界を超えて実体や霊魂の不死性について論証することは越権行為であり、不可能であるとされる。『純粋理性批判』において、「理論理性」の問題は「実践理性」の問題へと、即ち、人間の「自由」と「信仰」の領域へと移行されるのである。Nach dem rationalistiche Gedanken in der Neuzeit ist die Welt durch die Vorsehbnung als Logos des Seins geherrischt und weil Gott diese Welt und den Menschen erschaffen hat, besitzen beide geheinsam ein Teil der güttlichn Vernunft. So kann die menschliche Vernunft das vernünftliche Gesetz der Welt erkennen. Es scheint, daβ diese rationalistische menschliche Vernunft sich auf den naturwissenshaftlichen Gedanken und die technische Entwicklung stützt, aber quälen sich viele Denker seit 17 jahrhundert mit dem Dasein Gottes und der Unsterblichkeit der Seele. Decartes Dualismus spielt eine groβ Roll bei der Verhältnis zwischen Leib und Seele. Durch die Untersuchung der philosophische Gedanken danach möchten wir den Begriff des Todes in der Kantischen Philosophie.