- 著者
-
樋口 卓也
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.73, no.10, pp.720-725, 2018-10-05 (Released:2019-05-17)
- 参考文献数
- 19
エレクトロニクスの進歩の歴史は,その速度向上の歴史と言っても良い.エレクトロニクスの速度を決める要因は多々あるが,その中でも特にここでは電流をどれだけ短い時間で発生させられるかを考えてみよう.通常のエレクトロニクスが扱える時間よりもずっと短い時間だけ光るパルスレーザーを用いてその限界を調べる試みが進められている.フォトダイオードなどの通常の光受信機を用いると光のパルスが受信機を通っている間に徐々に電流は発生し,光の強度を電流として測定できる.しかしこの場合,我々が測定しているものは光強度の1周期平均であり,光の電場波形そのものではない.光の強度が強くなり,その光の電場の強さが物質の中で電子が感じている力よりも強くなると,電子が光の振動する一周期よりも短い時間で動き出すことができる.この時,電子の応答は光電場に対して非摂動的な非線形性を示し,応答の結果は光の(1周期を平均した)強度だけによっては決まらず,詳細な電場波形の時間発展の様子によって決定される.実際にこのような現象はこれまでガス状の原子や分子,透明な絶縁体などで発見されてきた.それではエレクトロニクスに欠かすことのできない良導体では光の電場で電子を駆動することはできるのだろうか.しかしこのような実験は電気を流す物質では実現が難しかった.これは金属は通常光の反射や吸収が強く,物質の中にまで強い光が届かないために,その中の電子が強い光を感じることができないからである.そこでグラフェンを用いることでこの困難を乗り越え,光の電場によって電子を駆動することで光の一周期より短い時間(1フェムト秒以下)で電流を流し始め,光の波形によってその電流の向きを制御することに成功した.グラフェンは良導体ではあるものの,原子一層分の厚みしかないために,光の反射や吸収が少ないという特徴がある.ここで重要となってくるのは,光が当たっている間,光の電場による加速によってグラフェン中の電子の運動量が時間とともに変化することである.この運動量の変化量が大きくなると,光と物質の相互作用を摂動展開した時にその展開が収束しない領域に達する.すると電子の運動はLandau-Zener過程のように振る舞い,光の1サイクルよりも短い時間で電子がバンド間を遷移するようになる.さらにこのような短い時間になると,電子の量子力学的な波としての性質が重要になってくる.この研究では,光の振動の半周期の間に起きる電子の波の経路干渉(Landau-Zener-Stückelberg干渉)によって電流の向きが決定されることが分かった.この経路干渉の結果は光によって駆動された電子の波数空間での軌道に大きく依存しており,光の偏光によってこの軌道を自在に操ることで電流の向きを光の1サイクルよりも短い時間でスイッチすることができることも明らかになった.光は1015 Hz程度の高い周波数で振動しているので,本来電気信号が扱えるよりもずっと多くの情報を単位時間あたりに運ぶことができる.この高い密度の情報を読み取れる原理が示されたことで,光を直接電気信号のように扱えるエレクトロニクス技術への一歩が踏み出せたと言える.