- 著者
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横山 輝樹
ヨコヤマ テルキ
Teruki YOKOYAMA
- 出版者
- 総合研究大学院大学
- 巻号頁・発行日
- 2013-03-22
本論は江戸幕府八代将軍徳川吉宗(在職 一七一六~一七四五)によって実施された武芸奨励を研究対象として、その歴史的意義の解明を課題とするものである。徳川吉宗は後世に「享保改革」と称される幕政改革を実施し、司法・行政・財政改革をはじめとする様々な改革を断行した。吉宗はこうした改革を進めると同時に、当時安逸に流れていた幕臣の気風を引き締めるため武芸を奨励する。吉宗が幕臣の士風刷新の為に武芸を奨励したことは広く知られており、吉宗に関する伝記や概説書の類にあっても言及されるところである。しかし、吉宗による武芸奨励の実態解明を課題に据え、これを正面から取り扱ったものは極めて少ない。歴史学の分野では、吉宗による司法・行政・財政改革などについての研究は盛んであるが、武芸奨励については改革を推進した吉宗の個人像を描く一端として、半ばエピソード的に取り上げられているに過ぎない。他方、武道学の分野では、日本武道の歴史を通史的に述べる際、武道熱の高まった時代として吉宗期が取り上げられている。特に、弓道史にあっては吉宗による歩射儀礼・騎射儀礼の研究と復興についての言及が見られる。こうした武道学に於ける吉宗研究は、今村嘉雄氏の研究によって一定の到達点に達した感があるが、武道学にあっては日本武道の発展を描くという独自の目的によって研究されたものであり、政策としての武芸奨励、即ち武芸奨励策の内実にまで踏み込むというものではない。現状の武道学の成果では、吉宗期を「前時代と比して武芸がより奨励された時代」、「武芸を好む将軍によって武芸が重んじられた時代」という評価に留まらざるを得ず、それは一面で、吉宗による武芸奨励とは、吉宗が将軍である間に限られた、一過性の奨励であったという評価に陥る可能性を含んでいるのである。果たして吉宗期の武芸奨励策とは、その様な評価に留まるものであったのであろうか。本論はこうした武道学に於ける吉宗研究の問題点(及び歴史学に於ける吉宗の武芸奨励に対する等閑視)に対して、実証史学の手法によってその解答のひとつを導き出そうとするものである。そして本論では、将軍拝謁を許された上級の幕臣である旗本で構成された、「五番方」(書院番、小性組、大番、新番、小十人組)と総称される幕府直轄の軍事部隊を取り上げ、これに対する武芸奨励策を分析対象とする。五番方は戦時に於いて幕府の主力部隊としての役割を担う存在であり、太平の世にあって五番方から失われつつある戦闘者としての本分を如何にして維持し、向上させていくかということは、吉宗が将軍になる以前から課題とされながらも未解決のまま吉宗の代に持ち越された問題であった。吉宗の武芸奨励策を俯瞰した時、五番方に対する武芸奨励策こそがその根本を為すものであるということが本論にあって分析対象とする所以である。即ち、旗本の軍事部隊に対する武芸奨励策を研究することの意義は、先行研究の不足点を補うというところに留まるものではない。それは江戸時代に於ける武士というものの存在意義を問うということに他ならないのである。寛永十五年(一六三八)の島原の乱からおよそ百年を経た吉宗期、戦乱から程遠い太平の世にあって武士は次第にその戦闘能力を失いつつあった。その様な時代にあって武芸が奨励されたということは、幕末に至るまで武士から「尚武」の気風が失われなかったこと、また実際の軍事的技量が維持・発展させられこと、また実際の軍事的技量が維持・発展させられたことの要因をなしている。そして、その歴史的意義として、19世紀の国際情勢の下、アジアの諸国が相次いで欧米列強の植民地となっていくなかで、国家の独立を堅持し、軍事の面における日本の近代化を達成していくうえにおいて大きな意義を担うことになった点を指摘する。この様な関心の下、本論では第一章で吉宗期以前に実施された武芸奨励策の限界について取り上げた。武芸奨励策とは吉宗によって始められたものではなく、それ以前から実施されていた。しかし問題は、そうした武芸奨励の掛け声とは裏腹に、五番方にあっては必ずしも実行に移されたとは限らないというところにあった。こうした状況の中にあって始められた吉宗期の武芸奨励策の独自の意義を論じる。第二章では吉宗期に創設された新制度である惣領番入制度を取り上げる。これは旗本の惣領(跡取り)を五番方の一員として召し出すという制度である。本来であれば惣領は家を継いだ後で五番方の一員となる訳であるが、同制度を活用すれば家を継ぐ前に五番方の一員になれた。それは、第一に収入の面で恩恵が存在した。同制度によって惣領が五番方の一員となった旗本家には、当主に与えられる家禄の他に惣領に与えられる役料というふたつの収入源が確保された。第二にそれは昇進の面でも恩恵があった。しかし同制度を通じて五番方の一員となるには、事前に課される武芸吟味を勝ち抜く必要があった。旗本惣領は同制度によってもたらされる恩恵を獲得するために、武芸に励み、武芸吟味に備えたのである。制度的に構成された恩恵を伴った武芸奨励策というべきものであった。第三章では将軍が自ら五番方の武芸の腕前を観閲する武芸上覧と、五番方を率いる番頭(隊長)が部下に対して実施した武芸見分を分析した。武芸上覧と武芸見分は、いずれも吉宗が将軍になる以前から幕府に於いて実施されていたものであるが、武芸見分の実施命令は五番方にあって無視されがちであった。これに対して吉宗は、武芸見分が五番方内部で実施されているかどうかを、武芸上覧を繰り返すことで自らが確認し、武芸見分実施の徹底を図った。武芸上覧に参加するということは子々孫々に至るまで内外に喧伝すべき名誉を得る手段でもあり、半ば強制的ではあるものの武芸に励むことは五番方の面々にとっても有意義なことであった所以を明らかにする。第四章では中絶状態にあった将軍の狩猟を吉宗が再興し、組織的な軍事調練としての意味を持つ次元にまで狩猟を昇華させた過程を論じた。獲物を追い出し、追い込んでいく勢子の役割を、五番方をはじめとする幕府の軍事部隊に担当させるという問題が本章の主題である。狩猟が軍事調練の役割を果たしていたということはこれまでも指摘されているところであるが、本論ではその実態に立ち入り、吉宗が年月をかけて完成させていった狩猟を通じた組織的軍事調練の形成過程を解明する。当初は勢子のやり方すら知らない者がほとんどであったが、吉宗は狩猟を繰り返すことによって徐々に勢子を担当する幕臣を鍛え、最終的には騎乗して獲物を追う騎馬勢子を務めるほどの水準に達し、号令に基づいて組織的に展開し得る大規模かつ高度に統制された旗本軍団の形成に成功する。三十年という長期間にわたって実施された吉宗の旗本五番方への武芸奨励とはこの様なものであり、それは吉宗没後も模範として継承されつつ、幕末の外圧・政情不安の中で国家の独立を堅持し、軍事面に於ける日本の近代化を達成していく上に於いて大きな意義を担うことになったのである。