著者
武田 康孝
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.49-66, 2022 (Released:2023-10-15)

本稿では、太平洋戦争期の音楽放送の変容を、番組制作者の思想及び実践から考察した。特に、1943(昭和18)年に日本放送協会の音楽部長に就任した吉田信(1904-1988)に注目し、彼の音楽部長就任の経緯、及び彼の音楽観に基づいて変化した音楽放送の方向性について、実際に制作された番組の概要を示しながら検討を行った。 日本の音楽放送は、1925(大正14)年の放送開始以来、洋楽と邦楽が別の部署で制作され、そのうち洋楽放送はラジオの聴き手の教養を向上させるものとして認識されていた。太平洋戦争が長期化し、放送政策が戦意昂揚から大衆重視の方向性へと舵を切る中で、音楽記者出身の吉田は協会から請われて音楽部長に就任した。あらゆるジャンルの音楽に通じ、幅広い人的ネットワークを有する吉田は、音楽放送の組織的一元化を部長就任の条件として提示するとともに、就任後は、大衆が楽しめる楽曲、または日本の伝統的な美観に基づいた楽曲の制作を重要視した。吉田は、それまでもっぱら芸術音楽系作曲家に委嘱してきた『国民合唱』の作曲を歌謡曲・民謡畑の作曲家にも委嘱したり、開戦直後に姿を消していた軽音楽番組を復活させたりする一方、芸術音楽の番組にも歌謡曲や軽音楽を組み込むなど、既存のジャンルを超えた番組制作を目指した。 音楽をジャンルで分け隔てしない吉田の音楽観及び音楽放送の方針は、戦時下の放送政策とも絡み合いながら、放送開始以来長らく続いてきた洋楽放送の特権的な「枠組み」を壊し、文字通り音楽放送へと変容を遂げる契機となった。大衆を重視する吉田の方向性は終戦後の音楽放送とも強い連続性を有している。その意味で、この時期の音楽放送は新たな時代の音楽放送の萌芽として捉えることもできよう。