著者
武石 智典
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.359-384, 2013-12-20

吉田松陰(1930~1959)は,江戸末期の長州藩士であり,思想家,教育者 として知られている。吉田松陰は明治から現代に至るまで人気が高く評価の 高低は別として,注目されてきた人物である。松陰に関する先行研究は,様々 な時代ごとの背景や世論に左右されてきた。松陰に対する評価は,昭和二十 年の八月十五日の敗戦以前と以後で大きく分けることができる。端的に言え ば,戦前の松陰像は「憂国の忠臣」であり,戦後は「人道主義の教育者」と して評価されてきた。つまり,松陰の多角的な事績から時代ごとの背景や世 論に合わせて松陰像が築かれてきた。戦前といっても明治,大正,昭和では 松陰像が異なる。また,戦前の松陰像に対する反動から新たな松陰像が築か れた。更に,研究者の基盤となる学問領域を軸としての松陰像を形成されて きたというのも戦後の松陰像の特徴である。更に,松陰の「草起論」に 対する解釈や「水戸学」との距離感,亦は「雄略論」における対外姿勢や松 陰の攘夷の定義といった先行研究においても解釈が分かれる問題がある。 本稿は,吉田松陰の忠誠観と対外認識及び政策に着目し,時代区分に沿っ て松陰の思想の変遷を明らかにするものである。また,先行研究で解釈が分 かれる「草起論」に対する解釈や「水戸学」との距離感,亦は「雄略論」 における対外姿勢や松陰の攘夷の定義といった問題に対して,新たな考察を 試みた。 結論として,松陰の忠誠は,最終的には天皇と朝廷,藩主と藩を分離し, 天皇―藩主―松陰(草)といった構造を築く。また,対外認識及び政策を 巡っては,松陰が攘夷を求めた理由は,松陰が,一貫して華夷秩序に則して 西洋列強を外夷と見なし,日本の独立を脅かす脅威として認識していたこと にある。また当初の近隣国に対し武力進出を主張した当初の「雄略論」から 後に交易により国を豊かにするとした「雄略論」へと変化していることを明 らかにした。