著者
シリヌット クーチャルーンパイブーン
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.475-493, 2013-12-20

タイにおける学生運動は,言論の自由を含む1968年の憲法公布をきっかけ に,様々な動きが見られるようになった。本稿では,新聞記事の分析を通じ て,事例として取り上げた「反野口運動」と「日本製品不買運動」の背景や 関連を考察した上で,タイにおける学生運動の展開かつ運動の成否に関わっ た資源や運動に貢献した政治的機会の観点から考察を進める。 「野口キック・ボクシング・ジム事件」による「反野口運動」及び「日本製 品不買運動」は,いずれもタイにおける日本の経済侵略に対する不満や不安 感が高揚していた状況の中で起きたものである。「反野口運動」において,新 聞記事を分析した結果,「ムアイ・タイ」を「キック・ボクシング」と呼んで いることや野口のムアイ・タイに対する捉え方が,タイ人の怒りを招いた一 つの原因であると論じられる。また,「反野口運動」は,学生運動としての位 置付けはこれまでされていないが,学生が大きな役割を果たしていたとは言 える。 一方「日本製品不買運動」は,タイにおける初めての本格的な学生運動で あったと評価されている。運動を呼び起こした要因としては,日本のタイに 対する経済侵略への不安及び不満が挙げられるが,他にも当時の独裁政権に 対する不満が日本に転移して表現され,日本がスケープゴートにされたとい うことも考えられる。 両運動の関連については,「野口キック・ボクシング・ジム事件」は「日本 製品不買運動」を導く口火であったと言える。「野口キック・ボクシング・ジ ム事件」によって,運動のモジュールを獲得した新聞と学生は,同様のパター ンを用いて一個の国を攻撃対象とした大規模な「日本製品不買運動」を展開 することができたと考えることもできる。 運動の成否を決定する資源について,本稿では①良心的支持者による物資 的援助,②社会問題改善に対する意識を強く持つ大量の学生,③小規模の運 動によるにノウハウ,④タイ全国学生センターと学内における少数のセミ ナーグループといった学生ネットワーク,そして,⑤政治的機会の増加,と いった五つの資源が運動の成否に貢献したと論じる。
著者
増山 浩人
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.43-61, 2013-12-20

本稿では,18世紀ドイツにおけるライプニッツ受容とヒューム受容に関す る近年の研究動向を紹介する。その上で,いくつかの具体例を交えながら, これらの研究がカント批判哲学の哲学史的源泉を解明するために寄与しうる ことを示したい。そのために,1.では,いわゆるヴォルフ学派に関する近 年の研究動向を紹介する。1960年以降,ヴォルフ学派に関する研究が急速に 進められてきた。その原動力となったのが,Georg Olms社によるヴォルフ全 集の刊行である。この全集は,ヴォルフの著作の原典が収録された第一部, 第二部と,ヴォルフ哲学の関連資料が収録された第三部からなる。第三部に は,ヴォルフ以外の18世紀ドイツの哲学者の原典だけでなく,ヴォルフ哲学 の研究書や論文集,国際ヴォルフ協会の機関誌『ヴォルフィアーナ』なども 含まれている。このように,ヴォルフ全集の刊行は,ヴォルフの著作の原典 をはじめとする当時の一次文献のみならず,この分野に関する研究書や論文 集などの二次文献も提供することで,1960年以降の18世紀ドイツ哲学史研 究を牽引し続けてきたのである。2.では,1768年にデュタン版ライプニッ ツ全集が出版されたことが,当時のドイツにおけるライプニッツ哲学の普及 に大きく寄与したことを示す。その上で,ライプニッツとヴォルフ学派の哲 学を比較検討した近年の研究を紹介する。これらの研究の中でも,M.Casula の「予定調和説とライプニッツからA.G.バウムガルテンまでの予定調和説 の発展」は,ライプニッツ・ヴォルフ・バウムガルテンの三者の哲学の相違 点を明らかにした重要な論文である。そこで,2.の後半部では,Casulaの 論文の概説を行う。最後に,3.では,18世紀ドイツにおけるヒュームの著 作の独訳の出版状況を概観する。
著者
佐々木 香織
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.251-270, 2013-12-20

一般的に,言語変化は「誤用」「ことばの乱れ」として問題視され,正すべ きものであるとみなされることが多い。本研究は,規範から逸脱した語形を 単なる「乱れ」ではなく,日本語において現在進行中の言語変化の一端であ ると位置づけ,その現状や出現の理由を考察することで現代日本語の姿を明 らかにしようとするものである。 本稿ではそのような現在進行中の言語変化として,後部要素として動詞連 用形を持つ転成名詞が,再び動詞化する例を取り上げて論じる。名詞をその ままの形式で動詞化することを許さない日本語では,従来,名詞に軽動詞「す る」を付けるか,「-r」語幹を付けることで動詞化していた。しかし,「ひた走 り(に走る)」という名詞から形成された「ひた走る」という動詞が現在定着 していることを代表に,様々な名詞転成動詞が存在することを本稿では主張 する。ここでは,そのような名詞転成動詞の実例を国会会議録や新聞記事, ウェブサイトから収集し,前部要素と後部要素の関係性に基づいて分類した。 その上で,名詞転成動詞は前部要素が様態を表す語であり,後部要素に対し て修飾的にはたらくことを強く求めるということを示す。 名詞転成動詞が作りだされる話者の心的要因について本稿は,より負担の 少ない簡素な語形を好むという「経済性の原理」と,よりインパクトがあり 新規性のある面白い語形にしたいという「創造性の原理」の二つを紹介する。 どちらも話者の,日本語に対する内的規則が存在しなければ成立しないもの であり,単なる学習不足による間違いではなく,一種の言語変化であると主 張する。
著者
久井 貴世
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.55-80, 2014-12-20

江戸時代の文献史料をもとに,史料中に記載されるツル類の名称を整理し,現在の種との関係について検討を行った。これは,文献史料を用いた研究を進めるにあたっての基礎作業として位置付けられる。本稿では,マナヅルGrus vipioとナベヅルG.monachaに関係する四つの名称を対象とした。“真鶴”・“”と記載される名称はマナヅルを指し,方言や別名もみられた。“黒鶴”・“陽烏”は,およそナベヅルを表わす名称として用いられ,一部でクロヅルG.grusを示唆する記述もみられた。“薄墨”は淡色化個体やクロヅル,“霜降鶴”は交雑種やカナダヅルG.canadensisを示す可能性を提示したが,あくまでも推測の域を出ない範囲のものであった。江戸時代には,現代よりも多種多様な名称が存在し,一部では史料によって想定される種が異なるなどの齟齬もみられた。マナヅルとナベヅルを示す名称に関しては大きな混乱は確認されなかったが,“薄墨”や“霜降鶴”については情報が断片的あるいは曖昧であるため,種を定めることが困難であった。今後新たな情報が追加されることで,より詳細な検討を行うことが可能である。
著者
矢板 晋
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.531-551, 2013-12-20

近年グローバル化する日本社会において,移民の子どもをめぐる教育問題 が顕在化している。そこでは,彼/彼女らが周辺化―不就学・不登校・学業 不達成―される実態がある。では,移民子弟はどのように周辺化されている のか。また,それはなぜか。さらに「日本の教育」は,どのような教育的公 正を実現すべきか。 筆者は2010年に栃木県真岡市で,2012年に同市と群馬県伊勢崎市で調査 を行った。調査対象は,真岡市の公立小中学校,国際交流協会,教育委員会, NPO法人「SAKU・ら」,伊勢崎市のNPO多言語教育研究所ICS(InternationalCommunitySchool) である。調査方法は主に半構造化面接調査と参与 観察である。 まず,周辺化の実態には大きく二つ考えられる。即ち,「親の周辺化」と「子 の周辺化」である。さらに,前者は「地域」「学校」において,後者は「学校」 「教育機会」「家庭」という空間で周辺化されている。 次に,周辺化の原因は大きく3つ考えられる。第一に,積極的ラベリング と消極的ラベリングというラベリング論からのアプローチである。第二に, 移民子弟や教員の使用言語をめぐる,言語コード論的アプローチだ。第三に, 就学段階における必須要素の欠如である。移民子弟の就学には,学校に「接 触」し,学校生活に「適応」,最後に「継続」して学校に通い続けるという3 段階が存在し,各段階で言語資本や社会関係資本などの不足がキーとなる。 最後に,移民子弟を考慮した教育的公正が必要である。「公正」とは,「平 等」の十分条件と解釈され,日本における多文化共生や多文化教育の重要な 概念である。移民子弟の教育的公正に関しては,各就学段階における公正を 実現すべきである。即ち「接触」段階では言語や文化的背景に着目した「象 徴的公正」,「適応」段階においては学習資源や人間関係を中心とする「資源 的公正」,「継続(移行)」段階では進級や進学制度における「制度的公正」の 達成が望まれる。
著者
武石 智典
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.359-384, 2013-12-20

吉田松陰(1930~1959)は,江戸末期の長州藩士であり,思想家,教育者 として知られている。吉田松陰は明治から現代に至るまで人気が高く評価の 高低は別として,注目されてきた人物である。松陰に関する先行研究は,様々 な時代ごとの背景や世論に左右されてきた。松陰に対する評価は,昭和二十 年の八月十五日の敗戦以前と以後で大きく分けることができる。端的に言え ば,戦前の松陰像は「憂国の忠臣」であり,戦後は「人道主義の教育者」と して評価されてきた。つまり,松陰の多角的な事績から時代ごとの背景や世 論に合わせて松陰像が築かれてきた。戦前といっても明治,大正,昭和では 松陰像が異なる。また,戦前の松陰像に対する反動から新たな松陰像が築か れた。更に,研究者の基盤となる学問領域を軸としての松陰像を形成されて きたというのも戦後の松陰像の特徴である。更に,松陰の「草起論」に 対する解釈や「水戸学」との距離感,亦は「雄略論」における対外姿勢や松 陰の攘夷の定義といった先行研究においても解釈が分かれる問題がある。 本稿は,吉田松陰の忠誠観と対外認識及び政策に着目し,時代区分に沿っ て松陰の思想の変遷を明らかにするものである。また,先行研究で解釈が分 かれる「草起論」に対する解釈や「水戸学」との距離感,亦は「雄略論」 における対外姿勢や松陰の攘夷の定義といった問題に対して,新たな考察を 試みた。 結論として,松陰の忠誠は,最終的には天皇と朝廷,藩主と藩を分離し, 天皇―藩主―松陰(草)といった構造を築く。また,対外認識及び政策を 巡っては,松陰が攘夷を求めた理由は,松陰が,一貫して華夷秩序に則して 西洋列強を外夷と見なし,日本の独立を脅かす脅威として認識していたこと にある。また当初の近隣国に対し武力進出を主張した当初の「雄略論」から 後に交易により国を豊かにするとした「雄略論」へと変化していることを明 らかにした。
著者
王 玉
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.83-104, 2014-12-20

大正七年(一九一八年八月)、鈴木三重吉は「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純粋を保全開発するため」の話及び歌を創作し、世に広める一大運動を宣言し、『赤い鳥』を発刊した。しかし、創作童話、童謡以外にも、鈴木三重吉の手による作品をはじめとする、多くの再話作品が『赤い鳥』において重要な位置を占めている。特に、第一次世界大戦中にヨーロッパの思想、文化がこれまで以上に流入するようになったことにともない、欧米の昔話の再話が『赤い鳥』に数多く掲載された。「私は、これまで世の中に出ている、多くのお伽話に対して、いつも少なからぬ不平を感じていた。ただ話が話されているというのみで、いろいろの意味の下品なもの少なくない」と当時の児童文学を手厳しく批判した三重吉は、積極的に芸術性の高い海外の作品を日本の子どもたちに紹介しようとした。しかし、外国昔話の再話作品が、どういう基準で選ばれたかはまだ明らかになっていない。ところで、昔話は残酷な場面が多く、子どもに向いていないという説があるが、大正時代の代表的な児童雑誌として、『赤い鳥』における昔話の再話作品に「殺す」「殺される」など「殺害」もそのまま残っていることが多い。「殺害」が残された理由として、昔話における「殺す」「殺される」というモチーフが単に残酷性を表わすものではなく、独自の意味を持っていることが挙げられる。本論は『赤い鳥』の欧米昔話の再話作品群を中心に、作品中の「食べる」「食べられる」「殺す」「殺される」などの場面を取り上げながらその特徴を明らかにし、そこに現れた三重吉を代表とする『赤い鳥』の編集方針とその意図を検討したい。
著者
閻 慧
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.55-70, 2014-12-20

本稿は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の改稿に関して考察するものである。周知のように、「銀河鉄道の夜」は、数回の改稿を経ることにより、多彩な容貌を持っているテクストである。その多面性を捉えるため、各次稿の間の改稿過程をどのように受け止めるかは、無論重要な問題となる。従来の研究においては、「銀河鉄道の夜」の改稿問題が焦点となっているもののうち、初期形〔三〕と後期形との間に行われる改稿を中心に論じるのが圧倒的多数である。つまり、テクストの初期形〔一〕から初期形〔三〕までに行われる改稿はこれまで看過されたきらいがある。そこで本稿では、新校本全集に収録された「銀河鉄道の夜」のテクストを参照し、まず初期形内部の変容を把握し、ついで初期形から後期形までの改稿について考察する。まず、初期形〔一〕と〔二〕の特徴について考えてみる。両者において、質的な差異は殆どない。ブルカニロ博士の全能性と実験という枠組みに注目すれば、初期形〔一〕と〔二〕をブルカニロ博士の実験記録として見なすことができる。次に、初期形〔二〕から初期形〔三〕まで、作中の現実世界に関する加筆に注目し、ジョバンニを苦しめる現実状況および彼が持っている逃走願望を読み取る。そこで、ジョバンニが焦点化されることによって、初期形〔三〕を彼の逃走物語として読むことができる。続いて、後期形における労働するジョバンニの設定が誘発した鳥捕りとの関係の変化、またジョバンニの父の帰還とカムパネルラの水死についての改稿を中心に、分析を行う。それによって、変容する後期形の姿が明らかになり、ジョバンニの行方の未定着によって、「銀河鉄道の夜」という作品の未決性が見出される。以上のように、「銀河鉄道の夜」が実験記録から未決の物語までの改稿プロセスを考察する。それと同時に、初期形〔一〕から後期形まで貫通している、ジョバンニの切符、金貨、牛乳などのモチーフの役割・意味についても吟味する。「銀河鉄道の夜」の物語に潜在する未決性、また共通するモチーフの多義性の分析によって、新しい読み方を示唆する。
著者
姜 銓鎬
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-15, 2013-12-20

林芙美子(一九〇三〜一九五一)の『放浪記』は、一九三〇年に初版が発刊されて以来、一九三九年の改訂版を経て二〇 一二年の復元版に至るまで、数多くの版本が存在する作品である。ところで、戦後の版本は、おおよそ改訂版を版本として おり、最近発刊された版本の中では、初版を底本としているものが多い。つまり、数多くの『放浪記』の中で、この二種類 の版本は一番重要な底本になっているのである。 改造社から出た『放浪記』は、整理されていない野性味を持つ作品として認識されている。一方、新潮社から出た『放浪 記|決定版|』(改訂版)は、構成的な部分において、一層整理された形態になっている。こういう特徴は、それぞれの版本 を比較することで確認することができる。 しかし、今までの『放浪記』研究は、作品の成立において出版社の変更ということを看過し、これについて論じる研究も 登場していない。そこで本論では一九三〇年の改造社版『放浪記』及び一九三九年の新潮社版『放浪記|決定版|』を中心 として、その成立過程をまとめながら、出版社の変更の原因と理由について考察しようとする。また、先行研究で改訂版を 初版より低く評価する傾向に注目し、そのような批判意見について再考する。改訂版に対する批判意見として共通するのは、 『放浪記』のステレオタイプ化した「ルンペン文学」というイメージを放棄していない点である。しかし、これこそ『放浪記』 に対する批判を払拭しようとした芙美子の意思とは正反対の意見であり、改訂版の意義を完全に無視することになる。
著者
胡 琪
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.241-250, 2013-12-20

「為人民服務」は中国語でよく使われているフレーズとして、広く知られているが、このフレーズに出た「服務」という言葉が日本語から中国語に流入した言葉、いわゆる日本語借用語であることは、あまり知られていないであろう。 「服務」の語源を遡ってみると、高名凱・劉正埮『現代漢語外来詞研究』(1958.文字改革出版者)では、「服務」は日本語からの借用語とされている。その後に出版された高名凱・劉正埮『漢語外来詞詞典』(1984.上海辞書出版社)でも、「服務」を日本語起源と明記している 。しかし、日中両言語における「服務」の使用状況をみると、日本語ではあまり使用されていないのに対し、中国語ではHSKの甲級語彙 に収録され、頻繁に使用されている。日本で造られた「服務」は日中両言語で異なる展開を遂げたのは何故であろう。筆者はかつて日本語における「服務」という言葉の出現とその背景について考察を行ったことがある(胡.2013)。本稿はそれの続きとして、中国語における「服務」という言葉の流入と受容の実態を解明する。