著者
段下 一平 手塚 真樹 花田 政範
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.73, no.8, pp.569-574, 2018-08-05 (Released:2019-03-12)
参考文献数
24
被引用文献数
1

超弦理論は重力の量子論の有力な候補として長年研究され続けている.究極の目標は自然界のあらゆる相互作用を統一する万物の理論の構築だが,副産物として数学や物理学の様々な分野との繋がりが見出されてきた.特に,この2,3年で物性理論,量子情報理論と超弦理論の意外な関係が明らかになってきた.超弦理論を非摂動的にどう定義したらよいかというのは長年の問題だが,重力を含まないある種の量子場の理論が超弦理論,あるいはより一般的な量子重力理論の定義になっているのではないかというホログラフィー原理という考えがここ20年ほど有力視されている.対応が最もよく理解されているのは極大超対称ゲージ理論と呼ばれる一見特殊な理論の場合だが,最近,SYK模型という物性分野から出てきた理論が重力理論の少なくともある種の特徴をとらえていることがわかってきた.SYK模型は,N個のフェルミオンが非局所的にランダムに相互作用している模型である.元々は1990年代初頭にサチデフ(Sachdev)と叶(Ye)が銅酸化物高温超伝導体の関連物質の実験に関係して非フェルミ液体状態を記述するために提案したSY模型というものがあったが,SYK模型はこれを簡単化してキタエフ(Kitaev)が2015年に提案した模型である.サチデフはもともと物性理論への応用という立場からホログラフィー原理に興味を持っていたようだが,途中から,SY模型を使って量子重力理論を定義するという方向性も追求し始めた.2015年にキタエフがSYK模型が「カオスの上限」を実現することを示し,量子重力の観点からの研究に火が付いた.現在では,SYK模型と対応する重力理論が何かはまだわかっていないものの,量子重力や量子カオスの研究の舞台として積極的に研究され,また,関連する模型も多々提案されている.著者らは,光格子中の冷却気体を用いてSYK模型を実現する方法を提案した.この方法では,深い光格子の1サイトに複数のフェルミ原子を捕獲し,光会合レーザーにより,任意の2準位から分子状態への遷移を可能とする.形成された分子が別の2準位の原子へと速やかに光解離する状況で,分子の内部自由度を活用することにより,必要な相互作用のランダムさを実現できるという提案である.SYK模型や超対称ゲージ理論のような量子重力理論の定義となると目されている理論を実験的に実現することができたとすると,量子重力系の様々な性質,たとえばブラックホールの生成や蒸発などを実験的に調べることができると期待される.そのような意味で,物性理論や冷却気体実験の専門家が,量子重力の研究に貢献できる可能性が拓かれつつある.