著者
清瀬 みさを キヨセ ミサオ Kiyose Misao
出版者
同志社大学日本語・日本文化教育センター
雑誌
同志社大学日本語・日本文化研究 (ISSN:21868816)
巻号頁・発行日
no.10, pp.41-59, 2012-03

研究論文(Article)平成17 年に登録有形文化財(建築物)<第26-0199 号>として国に登録された明治末期の煉瓦建築である衣笠会館(旧藤村岩次郎邸)は、今まで設計者、施工者、竣工年、建物の当初の用途に関して確かな情報が得られないまま、「明治期の希少な和洋折衷の煉瓦住宅建築の遺構」という評価がなされてきた。しかし、論者は、明治40 年前後の日本人の住文化を念頭におき、京都綿ネル株式会社を経営する実業家であった藤村岩次郎氏の職業や経済力、家族構成、敷地における会館の位置、建物の形状から推して、住宅建築にはあたらないと考えてきた。そこで、藤村家への聞き取り調査、古写真などの検証、京都綿ネル株式会社の本社屋建築との比較、衣笠会館の棟札発見、改修箇所の検証とこの時代の建築事情、住文化などを総合して衣笠会館の本来の機能と作者に迫ろうと試みた。最大の成果は、棟札発見によって、従来不詳であった設計、施工者について、請負人と記された棟梁・鈴鹿彌惣吉が施工し、上棟式が明治37 年10 月11 日であるという新しい知見をえたことである。またこの建物の古写真、改修箇所の比較検証から当初は館内すべてが洋間のみであり、現状の2 階四室の和室のうち3 室は大正末期から昭和初期、残りの1 室は昭和40 年代後半に改修されたと判断された。そして、藤村家への聞き取り調査からは、施主が造営した当初は、母屋としての木造平屋の和館、木造平屋建の洋館1 棟、煉瓦造2 階建の洋館1 棟(衣笠会館)、茶室、蔵4 棟の建造物からなる屋敷全体の構成も判明した。この建物の機能としては、従来の定説であった住居としてではなく、当時のお屋敷建築の定石である接客スペースとしての洋館であるが、一条通に面した表門から入ったすぐの位置にあること、施主の仕事場が会社だけではなかったこと、和館の母屋、敷地奥の奥座敷としての洋館の存在と総合して判断するならば、「表屋」的な、つまり事務所棟としての機能を担う建物であったという結論を導いた。
著者
清瀬 みさを
出版者
同志社大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

本研究の目的は「関西近代建築の父」と称されながら、建築史学の分野で「代表作がない」「没個性的である」「様式的一貫性がない」と評されがちであった京都大学工学部建築学科初代教授・武田五一(明治5?昭和13年)の建築作品とその思想を、「京都都市景観の形成」という観点から再評価することにある。そして、京都近代の都市形成の原点である武田の事例を考察することで京都市の景観施策の是非を検討することを目的とした。本研究では、まず武田が設計(設計指導あるいは競技の審査をつとめた)した橋梁、官庁、大学、商業ビルなど公共性が高く近代都市のランドマークとなった建造物と同時代の建築家のよるそれとの比較検討を行い武田作品の特質を考察した。武田建築の基本的な特色として陰影の浅い、グラフィカルな外観の構成とベージュや灰色の押さえた色彩が指摘された。そのため種々雑多な色柄形の建造物が入り交じる現代都市において埋没した印象を与えることが確認された。ついで、武田自身の著作、論文、建築作品、競技設計の審査を行った評価の観点に、時代を先取りした、単一の建築作品を越える「周囲(環境)との調和」への志向が確認された。武田の時代に描かれた風景画作品を分析することで建造物の「地」となる京都のイメージを抽出した。その上で都市景観を構築する建造物として武田作品の再評価を試みた。しかし、洋画黎明期の画家たちが描いた京都の街のイメージ、つまり淡く明るい土の色、陰影の浅い東山の山並み、浅瀬の鴨川、そこに点在するランドマークとしての歴史的建造物を背景に置くとき、逆にその「没個性」が現代の京都市景観施策を先取りする環境との調和を目指した結果であると評価される。そして、橋梁が建築物よりいっそう景観構築の規矩となるという武田の思想は、都市内の水運が廃れ、橋梁が道路の延長になってしまった現代都市において看過されてきたが、京都市景観施策に是非とも考慮すべき点であることを主張したい。