- 著者
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渡部 直己
- 出版者
- 日本文学協会
- 雑誌
- 日本文学 (ISSN:03869903)
- 巻号頁・発行日
- vol.43, no.3, pp.35-45, 1994-03-10 (Released:2017-08-01)
小説における「描写」は、近代日本文学の表象技術史上のいわば最大の輸入品であり、近代小説の問題の過半はその「描写」の質の変遷と共にあったといってよい。とりわけ、その長さのはらむ逆説、すなわち描写量と反比例してみずからの再現機能に不意の変容を余儀なくされる対物描写は、リアリズムの一種原理的な不可能性を暴きたてるきわめて両義的な要素である。描写の長さが不可避的にはらみこむこの変容は主に、(1)叙述(ナレーション)と虚構(フィクション)の両軸上における時間性の齟齬(2)虚構空間の混濁(3)再現から産出性への萌芽として見出されるが、本発表においてはまず、泉鏡花『式部小路』の一節をもとに右三点を明らかにしながら、描写という危険な要素の持つ複雑な性格を押さえたうえで、現代の小説家たちの描写の在り方を、具体例とともに検討する。そこでは、現在の若い作家のうち、島田雅彦、小林恭二、高橋源一郎といった男性作家が描写の両義性に対し比較的過敏であるゆえに、描写抜きのテクストを志向するという一方の現象と、鷺沢萌、山田詠美、小川洋子といった女性作家における描写志向とその質とを対照させたい。そのことによって、描写という歴史的産物に対する、批評的逃避と反動的追従の現状を指摘し、同時に、現代の文学風土の<電通>的性格を検証する。引用例は、鷺沢萌「川べりの道」、山田詠美「ベットタイムアイズ」、小川洋子「ドミトリイ」、日野啓三「牧師館」など。