著者
湯浅 翔馬
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.8, pp.62-85, 2021 (Released:2022-08-20)

ボナパルティスムとブーランジスムの関係は、しばしば両者の政治文化的な類似性が指摘されてきた一方で、ブーランジェ事件下のボナパルト派に関する研究は少ない。本論文は、ヴィクトル派という当時のボナパルト派内の多数派集団に着目し、フランス右翼史の画期とされるブーランジェ事件に対峙した時期のボナパルト派の実態解明を試みた。 1880年代後半のヴィクトル派内では、王党派と帝政派の議会グループ「右翼連合」を支持するポール・ド・カサニャックと、これに反対するロベール・ミシェルの間で激しい対立が存在した。この対立により、セーヌ県では帝政派コミテという下部組織が乱立し、カサニャック派とミシェル派に分かれて激しく対立する事態に陥った。1888年春、ヴィクトル公と中央コミテが統制を図った結果、セーヌ県のヴィクトル派組織は、対立の一方で完全には分裂していないという状況で、ブーランジスムの高揚に対峙することになる。 1886年から、急進共和派の改革将軍・対独復讐将軍として台頭したブーランジェに対し、ヴィクトル派内には批判や擁護など様々な見解が見られた。1888年以降、王党派から資金援助を受けながらも、急進共和派の一部を前衛とする反「議会共和政」運動としてブーランジスムが展開するなかで、多くのヴィクトル派は「帝政再建」を棚上げにして、改憲運動に参加していく。しかし、ヴィクトル派指導者層の言説や帝政派コミテの運動の分析からは、ブーランジスムへの対応について、党派内で一貫した方針や運動は存在しなかったことが明らかになった。 ブーランジスム敗北後の組織再編を経て、ボナパルト派は「帝政」ではなく「人民投票」を標語にしたものの、共和政へのラリマンが進展していく。かくして、1880年代前半から展開していた、帝政を支持する思想・運動としてのボナパルティスムの解体が、ブーランジスムを通じて加速するのである。