著者
片倉 邦雄
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.1, pp.106-149, 1986-03-31

1973年のいわゆる「オイル・ショック」までの日本の中東政策には、アラブ寄り中立といわれてもよいような客観的事実が存在した。敗戦直後の日本は国連パレスチナ分割決議には無関係であり、中東には植民地も持たず手が汚れていないという自負があった。国連加入後も、アラブ・イスラエル紛争には「中立」を標榜していたが、パレスチナ難民救済機関(UNRWA)にも応分の寄与をしていることは知られていた。しかも、1971年、ファイサル・サウディアラビア国王が訪日した際の共同声明ではパレスチナ人の正当な権利が明確にうたわれ、その後の国連総会決議でも投票パターンの変更が行われた。日本の要人がアラブ産油国を訪問するときにはきまって消費国連合反対を明らかにしていた。しかし、石油戦略が開始されると、中東におけるかつての植民地宗主国、英仏は「友好国」扱いされ、日本は石油供給カットの対象になる「非友好国」扱いにされているらしいことが次第に明らかになった。政府当局者、関係業界は、工業生産、国民大衆の消費生活に未曾有の衝撃を与える供給カットに直面し、真剣に過去の中東政策を再検討し、いかにして英仏並みの取扱いを受けることが可能か独自の情報収集・分析の必要にせまられた。73年11月22日の二階堂官房長官声明は、それらの情報に基づき、米国の立場、イスラエルの生存権をも考慮して割り出したギリギリの外交的選択であった。キッシンジャー元国務長官の回顧録によると、米国はこの日本の政策転換を、日本の指導者がエネルギー需要を冷静に計測した結果、生存のためには止むをえぬものとしてとった措置であり、しかも米国とのミゾを最小限にとどめようと努力した結果であったと評価している。筆者は三木特使の中東八ケ国歴訪に随行しアラビア語の通訳を担当したが、自らの見聞を記録に留め、また当時特使の経済顧問として同行した大来佐武郎元外相の回顧録『東奔西走』なども参照しつつ、アラブ世界の両巨頭、サウディアラビアのファイサル国王、エジプトのサダート大統領との会談を通じてアラブ石油戦略の網をいかに切りひらき、12月25日の対日石油供給制限解除決定へもち込んだかをふりかえってみた。日本は第一次石油危機の経験から学んだ。一面では、エネルギー集団保険機構たるIEAに加入し、省エネ・需要抑制効果と供給過剰(グラット)の市況とによって、危機管理能力は強化された。イラン・イラク戦争激化によるホルムズ海峡閉鎖の脅威にもパニックを起こすことなく冷静に対処してきている。他方、イラン人質事件、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争という危機に直面して、西側先進工業国間には協調の動きがみられ、特に日本・EC間の対米共同歩調が試みられたことは、新たな「創造的外交」の局面として注目される。