著者
田熊 敬之
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.7, pp.1-36, 2020 (Released:2021-09-09)

「恩倖(おんこう)」は皇帝の寵愛、またはそれを受けた者を意味する。中国の正史に歴代立てられた恩倖伝のなかでも、特に『北斉書(ほくせいしょ)』恩倖伝は、北族武人や西域胡人等を含むという民族的な多様性によって注目されてきた。本稿では、北斉「恩倖」が隋代以後の中央集権に繫がるという問題意識のもと、その代表的な人物である和士開(わしかい)の墓誌、及びその父である和安(わあん)の碑文を用いて、恩倖がどのように皇帝・権力者と結びついたのかを検討した。 まずは『北斉書』恩倖伝にいう「恩倖」とは何かを、序文や「和安碑」から分析した。その結果、北斉「恩倖」の焦点は皇帝や権力者に突如接近し、朝政に関与した人々にあったことを指摘した。次に、そうした中央権力との関係を支えた要因として、「和安碑」「和士開墓誌」にある「嘗食典御(しょうしょくてんぎょ)」「主衣都統(しゅいととう)」という官職に注目した。両官の職責は基本的に皇帝の御膳・御服を掌ることであったが、同時にその就官者は北朝期の政変や監察、執政の補佐に深く関与した。本稿では両官を「君主家政官(くんしゅかせいかん)」と名づけ、それを遊牧的な制度の影響を受けたと同時に、北魏(ほくぎ)末以後の二重権力状態を背景に出現してきた北朝独特の官職群であると定義づけた。君主家政官は当時の官制系統のなかで柔軟に運用され、胡漢の様々な階層へと浸透・拡大していくことで、出自を問わない人材が皇帝や権力者の周辺に集められたのである。最後に、君主家政官が漢人士族まで広がっていった背景には、北斉における門閥(もんばつ)的な体制そのものの変化・動揺があったことを述べた。 「恩倖化」の影響が北斉社会の広範に及ぶにつれて、貴族勢力の地方僚属に対する辟召権(へきしょうけん)が失われていき、隋(ずい)の開皇(かいこう)年間における郷官(きょうかん)廃止及び科挙(かきょ)制定の伏流となった。北斉「恩倖」の出現は、旧来の門閥制度に対する否定・社会階層の流動という趨勢の先駆的な動きであり、それはまさしく隋代以後の中央集権へと繫がっていったのである。