著者
福地 スヴェトラーナ
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.6, pp.1-31, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿は日ソ戦争直後にスターリンが満洲の日本人捕虜をソ連領内に移送して労働使用する命令を発令する過程と、ソ連極東軍が日本人捕虜をソ連領内に移送する過程が、常にアメリカが関与する状況の中で進められていた可能性についてソ連とアメリカの史料に基づいて検証することを目的とする。 ソ連では捕虜の労働使用が積極的に行われ、経験的にも技術的にも定着して制度化されていた。独ソ戦においてソ連は戦争終結後にもドイツ人捕虜の抑留と労働使用を計画したが、アメリカの反対が予想された。これに対してソ連はドイツの捕虜収容所からソ連軍が解放したアメリカ人を抑留状態に置き、その帰還者数を制限することによりアメリカの反対を抑えようとした。 日ソ戦争では日本人捕虜の取り扱いは独ソ戦争の経験に基づいて行われ、捕虜をすぐにはソ連領内に移送せずに武装解除地点に捕虜収容所を設置して収容状態を維持する命令が発令され、七日後にスターリンから捕虜を領内各地に移送して労働使用する命令が発令された。 この命令の実行に対してもアメリカの反対が予想されたが、アメリカは移送の事実を把握していたにも拘わらず沈黙を維持し、結果として移送を黙認することになった。 アメリカは日本が満洲に設置した捕虜収容所に収容されているアメリカ人の早期帰還についてソ連に協力を要請しており、ソ連はそれを受け入れて帰還は順調に進められて完了したが、これと引き換えにアメリカは日本人捕虜の移送に沈黙したものと考えられる。日本人捕虜の移送は翌年春まで続いたが、ソ連はその移送が完了するまでドイツの捕虜収容所から解放したアメリカ人の抑留状態を維持し、日本人捕虜の移送についてアメリカの介入を封じることに成功した。日本人捕虜の移送と労働使用の問題はソ連と日本の問題ではなく、ソ連とアメリカと日本、さらにはソ連とアメリカの問題であった。