著者
福田 庸太 平野 優 井上 豪 玉田 太郎
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.83-87, 2022-02-05 (Released:2022-02-05)
参考文献数
14

生体内で様々な化学反応を触媒するタンパク質(酵素)の働きを理解するために,この微小な分子機械の全体像,すなわち原子レベルでの立体構造を明らかにする研究が盛んにおこなわれている.なかでも単結晶X線構造解析は最も一般的な手法である.他方,得られた構造情報を用いて量子力学に基づいた量子化学計算をおこない,酵素反応機構に迫る研究も多数おこなわれている.だが,X線結晶構造解析には様々な限界があり,時として実験結果と計算結果との齟齬が生まれ,真の化学反応機構の解明に到達することが難しい.そのような例として,地球上の窒素循環に関わる銅含有亜硝酸還元酵素(CuNIR)があげられる.これは亜硝酸イオンの一酸化窒素への一電子還元というごく単純な反応を触媒する酵素である. CuNIRについて,過去30年以上様々な研究グループが反応機構の解明に取り組んでおり, X線結晶構造解析も精力的におこなわれてきた.しかし,結晶構造に基づいて提案された機構と,理論計算から予想された機構には,電子伝達経路や反応中間状態に違いがあり,どちらが正しいかの議論が続いている.この理由の1つは,X線結晶構造解析では水素原子の観測が原理的に困難だということである.タンパク質を構成している原子の約半数が水素原子であり,タンパク質を取り巻く水分子にも水素原子が含まれている.さらに,CuNIRが触媒する反応は,亜硝酸イオンへ水素イオンが渡される過程を含む.よって,水素原子位置も含めた精密な構造情報を得ずして,反応機構の詳細に迫ることができないのは当然であろう.こうした問題を解決すべくわれわれは,水素原子の直接可視化に優れた中性子結晶構造解析をCuNIR研究に適用することを目指した.CuNIRの大型かつ高品質な結晶を作製し,中性子回折強度データ収集を大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)内にある茨城県生命物質構造解析装置(iBIX)を用いておこなった.構造解析の末に得られたCuNIRの構造では,酵素活性中心に存在するアミノ酸残基や水分子上の水素原子をすべて可視化することができた.これにより,亜硝酸イオンへの水素イオンの運搬に関わる2つの触媒残基について,アスパラギン酸は脱プロトン化されており,ヒスチジンはプロトン化されているということが判明した.つまり基質への水素イオン運搬はヒスチジンから始まることが示唆された.さらに,反応中心に存在する銅イオン上に,水分子からプロトンがひとつ外れた水酸化物イオンが観測された.この構造は計算化学的に予想されていたものの,直接可視化されたのは初めてである.また,同じく量子化学計算によって予想されていたタンパク質内電子伝達経路中に,電子伝達反応を有利にするような強固な水素結合が存在することも実験的に初めて証明できた.今回,中性子結晶構造解析によってわれわれが得たものは,これまで矛盾がみられたCuNIRをめぐる実験と理論の双方を繋げるものである.今後,原子構造から量子レベルで生命現象を理解する「量子構造生物学」への橋渡しとなることが期待される.