著者
香川 雄一 莫 佳寧
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100175, 2015 (Released:2015-04-13)

現在、世界の各地で湖の面積縮小問題が湖沼の保全面において難題になっている。アラル海をはじめ、カスピ海やチャド湖、中国の洞庭湖や鄱陽湖などでこうした問題が起こっている。長江の中流に位置する洞庭湖は、19世紀前半までの面積が約6,000km2にまで達していた。その後の土砂堆積と人工的な農地干拓により、1998年には約2,820km2にまで縮小した。本研究では過去の地形図の変遷を通して、洞庭湖の面積縮小の具体的な過程を検討する。 本研究では外邦図と中国で発行された地形図を資料とする。1910年代は「中国大陸五万分の一地図集(湖南省部分)」、1920年代は「東亜五十万分の一地図(洞庭湖地区)」、1930年代と1950年代は「洞庭湖歴史変遷地図集」、1960年代は「1964年 湖南省地図集」、1970年代は「旧ソ連製 中国五万分の一地図(洞庭湖地区)」、1980年代は「1985年湖南省地図集」、そして最新のものは「2005年洞庭湖地区地図」を利用し、洞庭湖の面積変化の過程を洞庭湖全体と詳細な部分とで解析していく。 全体の湖面積の比較から見れば、1920年代から1930年代までの間が洞庭湖の変化がもっとも著しかった時期であり、面積と形状が大きく変化している。1930年代から1950年代までの時期には洞庭湖本湖の面積が縮小しながら、周辺の大きな内湖の面積も次第に小さくなっていった。1950年代から1970年代までの間に洞庭湖の本湖が次第に縮小し、大規模な国営農場の建設や河川整備のために、本湖の周辺に分散している内湖の面積も激しく縮小した。1970年代から1980年代には洞庭湖本湖の面積は安定していたが、周辺内湖で面積縮小が進んだ。1980年代に中国水利部は洞庭湖付近での干拓停止を決定した。また、1998年の長江大洪水を契機として、中国政府は治水政策の転換をはかり、「退田還湖」政策を実施し始めた。2000年以降、「退田還湖」政策により洞庭湖の面積は少しずつ回復してきている。こうして1980年代以降は、政府が環境政策を転換したため、2005年までに洞庭湖では779km2の水面が増加した。 洞庭湖の各部分として、東洞庭湖・南洞庭湖・西洞庭湖の変化を比較すると、1920年代から1950年代の間にかなりの面積縮小が進んでいたことが分かった。1950年代以後は面積縮小が緩くなり、周辺の内湖の数量と面積が急減した.これは新中国の成立後、食糧危機と人口増加にともなって湖を干拓し、耕地化させるという政策と密接な関係があったと考えられる。 洞庭湖の周辺では湖の面積が縮小したため、洞庭湖の洪水調節能力が低下し、洪水被害が頻繁に発生した。1998年の夏秋に発生した長江大洪水は洞庭湖地区に非常に重大な損失をもたらした。1998年の大洪水期の衛星画像と1920年代の地図を比較すると、洪水期の東洞庭湖に生じた浸水域の面積は過去の水域とほぼ一致し、西洞庭湖とその周辺地区で水没した地域は過去の地図ではほぼ湖であったことが分かった。 地図の比較を通じて、洞庭湖の面積変化の原因は時代の変容にともなって変わっていくことが分かった。1950年代以前は主に周辺住民が浅い沼で自発的に新田開発を行ったことより面積が縮小した。1950年代からは政府に主導された堤防の建設や国営農場の建設が面積縮小の主な原因であった。過去約1世紀にわたる地形図の変遷を追うことにより、洞庭湖の面積縮小過程を理解することができ、環境問題の要因も把握できた。