- 著者
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菅原 至
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
- 巻号頁・発行日
- pp.230, 2023 (Released:2023-04-06)
1.問題の所在 日本は第二次大戦の敗戦により小笠原諸島の施政権を喪失した.米国施政権下(1945-1968)の小笠原諸島では先住者である欧米系・太平洋系世帯のみが居住を認められ,日系島民は施政権返還まで居住が許されなかった.施政権返還後の小笠原村民は,住民行政上「在来島民」「旧島民」「新島民」の3者に区分されるが,「在来島民」は米国施政権下の父島に居住していた人々を,「旧島民」は戦前に小笠原諸島に居住していた日系世帯を指す.「新島民」は返還以降に父島・母島に移住した人々である. 「在来島民」の歴史経験や「新島民」の移住に関する研究には一定の蓄積がみられ,戦後に難民化した「旧島民」の生活や帰島・補償運動については石原(2013; 2019)に詳しい.しかし「旧島民」の返還前後の活動や帰島後の生活については詳らかになっていない.そこで,本研究は故郷喪失を経て帰島し,島内に定住した「旧島民」の経験を明らかにすることを目的とする.手法としては,南方同胞援護会の刊行物等の分析と,聞き取り調査を用いた. 2.返還以前の「旧島民」の動向 強制全島疎開以降,難民化した「旧島民」は,東京都(島嶼部を含む),神奈川県,静岡県を中心に全国43都道府県および沖縄(大東諸島)に離散した(南方同胞援護会編 1966).帰島を待つなかで「旧島民」は経済的に困窮し,1953年の東京都による「小笠原島引揚民の生活状況調査」では全体の85%が困窮者とされている.いつ帰島が許可されるか見通しが立たない状況のため,現住地への資本の投下が困難であったことも困窮の要因となった(犬飼・橋本 1969).総理府が返還直前に全国の「旧島民」を対象に実施した悉皆調査では,帰島希望者は回答者全体の68%にのぼり,島別の内訳は父島2,276名,母島1,424名,硫黄島395名であった. 3.返還時の諸島内の状況と課題 戦前の小笠原諸島には, 5つの行政村(父島: 大村・扇村袋沢村,母島: 沖村・北村,硫黄島: 硫黄島村)が設置されていたが,米国施政権下では父島大村のみが居住地として利用され,その他の集落は放棄されていた.「旧島民」の帰島に際しては,住宅や上下水道,電気等のインフラ整備が喫緊の課題であった.そのため,小笠原返還をもって「旧島民」の帰島が実現したわけではなかった.特に米軍が駐留しなかった母島は,全島が亜熱帯の植物に覆われたため再開拓が求められ,定住には返還から5年の歳月を要した. 4.「旧島民」の帰島・定住の過程 返還後に帰島を果たした「旧島民」は,主に戦前の生活の記憶を持つ40代以上であり,少数の若者は親の意志に応えて随伴した島外育ちの戦後世代であった.帰島時期に着目すれば,同じ「旧島民」にも従事する職種により差異がみられた.例えば,漁業者は農業者よりも帰島・定住が早く,その要因としては以下の3点が指摘できる.第1に,米国施政権下の父島では,「在来島民」がグアムに冷凍魚を輸出していたため,最低限の港湾設備が整っていたこと.第2に,漁業者は,返還以前から返還後の漁協設立に向けて「在来島民」の漁業者と接触していたこと.第3に,戦前の農地が密林に戻っていたため,農業者としての定住を希望した人々は生業基盤の整備に時間が掛かったことである. これに対し,帰島が果たされなかった「旧島民」も存在する.一部の硫黄島出身者は父島・母島に移住し帰島を待ったが,現在まで帰島は実現していない.また,小笠原復興計画では,インフラ集約を目的として「一島一集落」が基本方針とされ,父島大村地区と母島沖村地区の優先整備が行われた.そのため,他集落出身者は帰島できても帰郷できない状況が続いた.本発表では,以上のような文書資料から得られた「旧島民」の帰島・定住の過程を,聞き取り調査の結果と照らし合わせることで,生きられた経験として論じる.文献 石原 俊 2013.『〈群島〉の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島,日本・アメリカ,そして太平洋世界』弘文堂. 石原 俊 2019.『硫黄島』中央公論新社. 犬飼基義・橋本 健 1969.『小笠原――南海の孤島に生きる』日本放送出版協会. 南方同胞援護会編 1966.『小笠原関係実態調査書元居住者名簿編』南方同胞援護会. [付記] 本研究は「阿部英雄史学地理学科研究奨励金」および 「明治大学大学院生研究調査プログラム」の補助金を使用した.