著者
三納 正美 大原 圭太郎 山舩 晃太郎 市川 泰雅 木村 颯 片桐 昌弥 橘田 隆史 西尾 友之 大原 歳之 菅 浩伸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.248, 2023 (Released:2023-04-06)

1. はじめに 島根半島の東端に位置する地蔵埼から北東に30㎞以上離れた海域に、日本海軍の駆逐艦「蕨(わらび)」が沈んでいる.1927年の夜間演習中,軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」,軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」がそれぞれ衝突し,「蕨」は沈没,「葦」は大破(艦尾沈没)し,殉職者119名にも及ぶ大事故となり,美保関事件として後世に伝えられている.事故直後から掃海作業や救助作業は行われたが,沈没した正確な位置は不明であり,これまで詳細な調査は実施されていないことから,蕨の沈没位置を特定し,船体の状況を確認するため,本調査を行った.2. 探査方法と結果 既存資料を整理すると4箇所の沈没候補地が挙げられ,その位置も広範囲に分布していたことから,緯度経度情報があり「軍艦」「ワラビ」と呼ばれている漁礁地点を魚群探知機で調査し,反応があった地点周辺を2020年5月にマルチビーム測深機(SeabatT50-P)で詳細に探査した.その結果,漁礁「軍艦」は全長約54m,全高5.4m,最大幅8.3mの巨大な塊であることが判明した.マルチビーム測深で正確な地点,水深,形状等を把握できたため、本調査プロジェクトチームが開発した水中3Dスキャンロボット(天叢雲剣MURAKUMO)を投入し,2020年9月に水深約90mの海底に沈没した船体を確認することに成功した.この結果,船体前部のみであること,発見した水深は約90mであるが,事故直後に調査された時の水深値と島根県の水産試験船が発見した物体の水深値は約180mであったことから,残りの船体は別の場所に沈没している可能性が出てきた.そこで,2021年7月に「軍艦場」と呼ばれている地点を中心に約2.5㎞四方の海域をマルチビーム測深機(SeabatT50-P)で探査し,これまで1つだと認識されていた地形の高まりがいくつかあることがわかった.マルチビームで得られた詳細海底地図を用いて,改良した天叢雲剣MURAKUMOで探査した結果,水深180mを超える海底に沈む駆逐艦蕨後部を発見,撮影することに成功した.3. 考察 天叢雲剣MURAKUMOで取得した画像データを用いてフォトグラメトリによる3Dモデルを作成し,画像データと合わせて検証した結果,船体のサイズや船首形状が蕨に近似し,砲塔のような筒状の構造物,舷窓等が確認できたことから,蕨である可能性が高いと判断した.4. まとめ 蕨前部と後部は約15㎞も離れているが,既往資料や現地状況から,衝突現場は蕨船体後部が沈没している場所であり,船体前部は浮遊後現在の地点に沈没したと考えられる.蕨後部周辺にはその他いくつか地形の高まりが確認されている。今後これらを探査することで,美保関事件をより詳細に解明できるものと考える.参考文献大原 歳之2020. 海の八甲田山「美保関沖事件」伯耆文化研究 第二十一号(2020)抜粋改訂版.謝辞本研究は2021-2025年度科研費 基盤研究(A)JP21H04379および2021-2024年度科研費 基盤研究(C)JP21K00991の成果の一部です。
著者
小口 高 鍛治 秀紀 鶴岡 謙一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.106, 2023 (Released:2023-04-06)

東京大学情報科学研究センター(CSIS)は1998年に発足したGISの研究組織である.CSISは文部科学省が認定した共同利用・共同研究拠点であり,様々な地理空間情報をCSISが多数収集して「研究用空間データ基盤」を構築し,収録したデータを提供している.CSISがデータを収集・購入する際に,データの提供元と覚え書きを交わすことによって,外部の研究者がデータを利用する可能性を確保している.この仕組みにより,個人研究者がデータを入手する際の経済的な負担や手間を軽減している. 「研究用空間データ基盤」に登録されているデータはデジタルデータであるが,地理学では長年にわたり,紙の地図が基本的なデータとして活用されてきた.紙地図は現在も作製されている.この際には,地図を構成する要素のデジタルデータを用いて地図のデジタル原版を作製し,それを印刷するのが今日の一般的な状況である.一方.古い時代の紙地図は,デジタルデータから作成されたものではなく,現存する紙地図自体がデータとして意味を持つ.各所に保管されている古い時代の紙地図の一部は,スキャンやデジタイズによってデジタル形式になっている.このような古い地図の情報を活用して地域の過去の状況を明らかにし,近年の状況と比較することは,地理学の主要な研究方法の一つである.古い時代の地図は,学校教育や生涯教育の場でも活用されており,社会的にも重要である.たとえば,「ブラタモリ」のようなテレビ番組では,過去から現在に至る地理的環境と人の営みを結びつける際に,新旧の地図がしばしば活用されている. このような点を考慮し,CSISはデジタルデータとともに紙地図の資産にも注意を払ってきた.CSISが「研究用空間データ基盤」の提供のような本格的な活動を,紙地図についても行うことは,組織の性格やマンパワーの点から困難である.しかし,紙地図の活用と関連した試みをいくつか行ってきた.日本地理学会と関連した一つの事例は,2000年代後半に試みられた「デジタル地図学博物館」の構築である.これは,CSISが日本地理学会の国立地図学博物館設立推進委員会(現在は地図資料活用推進委員会と改称)と連携し,様々な機関が公開していた地図のスキャン画像を,検索によって即座に閲覧できるシステムの構築を目指したものである.この際には,古地図などの画像を公開している全国の博物館などのウェブサイトを対象とした.このプロジェクトは,画像のURLの変更に対する対応の難しさなどの課題が生じたことと,地図を含む画像の検索がGoogleなどの検索エンジンで可能になっていったこともあり,プロトタイプの構築とその試行的な運用で終了した. 2018~2019年度には,東京大学のデジタルアーカイブズ構築事業の一環として,多数の紙地図のスキャンニングと,地図画像の公開システムの構築を行った.スキャンニングの対象となった地図は,1980年に東京で開催された10th International Cartographic Conferenceの際に,約40ヶ国から日本地図学会に寄贈され,その後に東京大学柏図書館に移管された約1200枚の紙地図の一部を含む.具体的には,国土地理院、海上保安庁、日本水路協会、日本オリエンテーリング協会、U.S. Geological Survey, Geological Survey of Finlandなどが製作した紙地図をスキャンし,著作権の問題がないことを確認した後,「柏の葉紙地図デジタルアーカイブ」としてオンライン公開した.このアーカイブは,独自に開発した地図検索システムを使用しており,高解像度の地図を高速に表示するとともに,メタデータの表示や検索の機能も持っている.ただし上記の1200枚の地図の大半は著作権が消滅していない等の事情があり,公開できたコンテンツの数は限られている. 最新の紙地図と関連したCSISの活動として,埼玉大学教授だった故谷謙二氏がオンラインで公開し,教育の場を含む様々な場面で広く活用されている「今昔マップ」の保守が挙げられる.「今昔マップ」は,国土地理院およびその前身の機関が紙地図として出版した明治時代以降の地図をウェブ・ブラウザで表示する機能を持ち,さらに新旧の地図を並べて比較できる.谷氏は2022年に8月に急逝されたため,氏が管理していたサーバーで稼働している「今昔マップ」の今後の継続性が不透明となった.地理学関係者やご遺族による検討の結果,CSISが「今昔マップ」を含む谷氏が整備したオンラインコンテンツの保守の主体として協力することになった.当面の目的は,現状の「今昔マップ」の提供を継続することである.今後,現行の「今昔マップ」には含まれていない地域の地図画像を,新たに追加する可能性についても検討する予定である.
著者
土居 晴洋
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.126, 2023 (Released:2023-04-06)

わが国では明治期以降の近代化の過程で,死亡数の増加とともに,火葬率が上昇し,葬送の在り方が変容した。本報告は,大正から戦前期における埋葬と墓地の時間的推移と地域的特色を,葬送に関する都道府県単位のデータを利用して考察する。
著者
永田 彰平 高橋 侑太 足立 浩基 中谷 友樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.205, 2023 (Released:2023-04-06)

Ⅰ.研究の背景 2019年12月に発生した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が現在まで続いており,感染拡大期には,各国でロックダウンによる感染の封じ込めが試みられた.日本においても,2020年4月に1回目の緊急事態宣言が全国で発出されて以来,各都道府県の流行状況に応じて,緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が実施され,外出の自粛や飲食店に対する休業あるいは時短営業が要請された. ロックダウンなどの非薬物的介入(NPIs: non-pharmaceutical interventions)による人流変化と感染推移の関係は各国で多く検証されており(Zhang et al. 2022),日本では,1回目の緊急事態宣言下での人流抑制と感染緩和の有意な関連が示されている(Yabe et al. 2020; Nagata et al. 2021).しかし,先行研究の多くは流行初期を対象としているため,デルタ株が流行しワクチン接種が進んだ第5波や,オミクロン株が流行した第6波以降のNPIs実施に伴う人流変化と感染推移の関連は確かめられていない. 本研究は,流行初期から第7波におけるNPIs実施の人流抑制を介した感染推移への効果を都道府県ごとに検証した. Ⅱ.方法 1. 人流変化指標の作成 まず,流行前の全国の4次メッシュを性別・年齢階級別滞留人口の時間的な変化パターンに基づき排他的な6類型(低密度住宅地区,過疎・山間地区,居住無し昼間流入地区,高密度住宅地区,職住混在地区,オフィス街・繁華街)に分類した.次に,COVID-19流行下における各都道府県の日別・地区類型別滞留人口を流行前のものと比較し,人流変化指標を作成した.滞留人口データは,株式会社ドコモ・インサイトマーケティング提供のモバイル空間統計を用いた. 2. NPIsの効果検証 感染拡大指標を被説明変数,NPIs(緊急事態宣言,まん延防止等重点措置)の実施を説明変数,各地区類型での人流変化指標を媒介変数として媒介分析を実施した.それぞれの変数は日単位の時系列データとして整理され,状態空間モデルによりパラメータ推定を行った.なお,ワクチン接種の普及や変異株の出現により,NPIsの効果が時期で異なることが想定されたため,分析期間をデルタ株流行前(第1~4波: 以下I期),デルタ株流行+ワクチン接種普及期(第5波: 以下II期),オミクロン株流行以降(第6波以降: 以下III期)に分けた. Ⅲ.結果 媒介分析の結果,I期の東京都では,NPIsの実施がオフィス街・繁華街での夜間の滞留人口を減少させ,感染抑制に寄与したことが示された.また,NPIs実施の感染抑制効果のうち,オフィス街・繁華街での人流低下による効果は19%であったと推定された(95%ベイズ信用区間: 6% - 35%).一方,II期やIII期では,NPIsの実施が人流を低下させたものの,感染抑制への効果は認められなかった. 宮城県や大阪府でも同様に,I期においてはNPIsの実施によるオフィス街・繁華街での人流低下が感染抑制に寄与したが,II期以降のNPIsの効果は認められなかった. Ⅳ.考察 流行初期はNPIsによる人流抑制が感染緩和を規定する主な要因であったが,ウイルスの伝播性の変化やワクチンの普及,自粛疲れなどにより,NPIsによる人流抑制が感染推移に及ぼす影響は小さくなったことが示唆された. 参考文献 Nagata, S., et al. 2021. Mobility change and COVID-19 in Japan: mobile data analysis of locations of infection. J. Epidemiol., 31(6), 387-391. Yabe, T., et al. 2020. Non-compulsory measures sufficiently reduced human mobility in Tokyo during the COVID-19 epidemic. Sci. Rep., 10, 18053. Zhang, M., et al. 2022. Human mobility and COVID-19 transmission: a systematic review and future directions. Ann. GIS, 28(4), 501-514.
著者
LAI SHANGYU 于 濰赫 池田 真利子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.233, 2023 (Released:2023-04-06)

日本統治時代を経験した台湾・韓国には,現在でも数多くの有形・無形の関連遺構が存在する。戦後,両地域の政府は戦後体制の確立のなか,日本統治時代の遺構の撤去・破壊を行った。一方で,1990年代にはこの撤去・破壊に対する市民運動が発生し,これを機に日本統治時代の遺構を文化財として認識する機運が高まり,以降,これらの遺構は「遺産化」されるようになった。また,2000年代以降の登録文化財制度の新設により,日本統治時代の遺構の文化財指定・登録は一層進み,工場や旧官僚社宅のような「大型の日本統治時代遺産」を中心に積極的な活用が行われるようになった。台湾ではイギリスの文化創造政策の影響を受けた「文化創意園区」が統治時代遺産で発展し(于・池田,2020),また群山・木浦・大邱等を例とし,韓国の地方都市では観光資源として積極的に活用される場合もある。これらの文化遺産を巡る視点は,双方の国の戦後体制において流動的に変化し,また1990年代の台湾本土化運動では台湾のアイデンティティの一部として受容され,新たに意味付けられる側面も確認される。 さて,日本統治時代遺産に関する文献や先行研究は複数あるが,これらは大型の日本統治時代遺産に注目したものが主体であり,また,地権者が民間・個人に帰属するため,保存・活用の難しい「リトルビルディング遺産」を扱った文化遺産学的研究はない。また,文化遺産を巡る視点が絶えず変化し,せめぎあうなかで,「リトルビルディング遺産」の利用者は,なぜ,どのような視点に基づき,どのようにそれらを利用しているのか等,関係主体へのヒアリング調査が極めて意味を有する一方で,台湾・韓国においてもこれらの研究は不足する。 したがって本稿の研究目的は,台湾・韓国における日本統治時代遺産を対象として,その形成背景と保存の経緯を概観するとともに,なかでも延べ面積が100坪以内であり,住宅用途以外で使用される「リトルビルディング遺産」に焦点を当て,利用の現状を明らかにすることである。 本研究は,文献調査(先行研究や報告書の現地入手),データベース作成(各文化省データベースのほか,書籍,Web情報),現地調査の順に行った。また現地調査では,計14件の半構造化インタビュー調査(所要時間40分~1時間程度)を行った。本研究対象地域は,いずれも旧日本人高級住宅街として形成された台北の旧御成町・旧幸町,およびソウルの厚岩洞(以下,旧三坂通)である。 本研究では,台湾,次に韓国で日本統治時代遺産の保存・活用の体制が整備されたこと,そしてこれらは大型の日本統治時代遺産に顕著であるのに対し,リトルビルディング遺産は民間において都市開発の回避や景観条例の制限等の結果,消極的かつ偶発的に残されていること,またこれらを使用する動機として日本統治時代の遺構であることは弱く,同様に流動的な対日感情がこれらの利用に影響を与えてはいないこと等が明らかとなった。論争的な側面を有する植民地遺産の一例は,保存・活用を自明のものと捉える態度に疑問を投げかける。他方で,これら有形の遺構は,日常的に使用されることで結果的に残され,過去の歴史的記憶の参照を可能とする。
著者
中條 暁仁 梶 龍輔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.54, 2023 (Released:2023-04-06)

近年,地域社会とともにあり続けた寺院が消滅していくとする指摘がなされている。一般に,寺院はそれを支える「檀家」の家族に対する葬祭儀礼や日常生活のケアに対応することを通じて地域住民に向き合ってきた。しかし,中山間地域などの人口減少地域を中心に家族は大都市圏へ他出子(別居子)を輩出して空間的に分散居住し,成員相互の社会関係に変化を生じさせているため,いわゆる「墓じまい」や「檀家の寺離れ」などが出現している。こうした諸事象は現代家族の変化を反映するものであり,寺院の動向を追究することによって社会や家族をめぐる地域問題の特質に迫ることができると考えられる。 一方,既存の地理学研究をふりかえると,寺院にとどまらず神社も含めて宗教施設は変化しない存在として扱われてきた感が否めない。寺社をとりまく地域環境が変化しているにも関わらず,旧態依然の存在として認識されているように思われる。宗教施設もまた,地域の社会や経済の変化による作用を受けていることを指摘するのも本研究の問題意識である。 そこで本報告では,実際に解散や合併に至った寺院がどの程度存在するのか,それはどのような地域で生じているのかなどを検討する。また統廃合後の寺院の実態にも言及したい。 発表者は,中山間地域など人口減少地域に分布する寺院をとらえる枠組みを,住職の存在形態に基づいて時系列で4段階に区分し提起している。住職の有無に注目するのは,住職の存在が寺檀関係(寺院と檀家との社会関係)の維持に作用し,寺院の存続を決定づけるからである。 第Ⅰ段階は専任の住職が常住しながらも,空間的分散居住に伴い檀家が実質的に減少していく段階である。第Ⅱ段階は檀家の減少が次第に進み,やがて専任住職が代務(兼務)住職となり,住職や寺族が寺院内に居住しない段階である。第Ⅲ段階は,代務(兼務)住職が高齢化等により当該寺院の業務を担えなくなるなどして実質的に無住職化に陥ったり,代務住職が死去後も後任の(専任あるいは代務の)住職が補充されなくなったりして無住職となる段階である。そして,第Ⅳ段階は無住職の状態が長らく続き,境内や建造物も荒廃して廃寺化する段階である。 このうち,本報告では第Ⅳ段階にある寺院を対象とする。現代においては宗教法人の煩雑な解散手続きまでには至らずに,少数かつ高齢による檀家の管理が行き届かずに,建造物や境内が荒廃し放置された寺院が過疎地域を中心に増加し続けていると考えられる。ただ,こうした寺院は統計的には把握されていないため,本報告では実際に宗教法人としての解散手続きを経て廃寺や合併に至った寺院を対象とする。 本報告で検討するデータは,寺院の統廃合に関する情報を取りまとめていたり,宗派内で公表したりしている曹洞宗・日蓮宗・浄土真宗本願寺派の3派から得られた。これまで解散や合併に至った寺院が個別に報告されることはあったが,それを体系的・経年的に明らかにされることはなかったため,主要宗派からデータが得られたことの意義は大きい。寺院を対象とする研究の遂行にあたっては,寺院の運営に関する詳細な情報,および原則非公開となっている各宗派組織における宗務データの収集が必須である。これまで本報告で目指ざす研究の実践は,対象者の協力が得られなかったために困難を極めたが,近年の寺院を取り巻く環境変化に呼応して各宗派組織が積極的に実態把握に努めるようになっており,データの収集が可能になりつつある。本報告は,これらの前提条件が満たされたことにより可能になったことを断っておく。 本報告では曹洞宗・日蓮宗・浄土真宗本願寺派における寺院の統廃合を検討する。比較可能な1980年代以降をみると,2010年以降解散や合併に至った寺院が顕著に増加していた。地域的には,80年代から過疎の進行した地方圏で目立っていたが,2000年以降は大都市圏にまで拡大している。ただ,宗派によって寺院の分布は異なるため,寺院が集積する地域ほど統廃合件数が増える傾向はある。しかし,こうした中にあっても過疎指定地域で当初多く見られたものが,現在は非過疎地域にまで広く及んでいる点は地域社会の空洞化との関連が指摘できる。また,宗派によって寺院単独の解散と合併による解散の相違があり,地域性と同時に宗派性を加味する必要がある。 中山間地域にある解散寺院の場合,建造物の内部に保管されていた仏像・仏具は合併した寺院に移されていたが,建造物本体は解体費用の負担が生じるため,朽ちて近隣住民に危険が及ばない限り放置されていた。また,解散して数十年以上経過した寺院のなかには,合併寺院や元檀家が資金を出し合って建造物を撤去整地している例もあった。跡地は共用施設に利用されたり,元檀家が石碑を建立してかつての所在を明示していた。
著者
菅原 至
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.230, 2023 (Released:2023-04-06)

1.問題の所在 日本は第二次大戦の敗戦により小笠原諸島の施政権を喪失した.米国施政権下(1945-1968)の小笠原諸島では先住者である欧米系・太平洋系世帯のみが居住を認められ,日系島民は施政権返還まで居住が許されなかった.施政権返還後の小笠原村民は,住民行政上「在来島民」「旧島民」「新島民」の3者に区分されるが,「在来島民」は米国施政権下の父島に居住していた人々を,「旧島民」は戦前に小笠原諸島に居住していた日系世帯を指す.「新島民」は返還以降に父島・母島に移住した人々である. 「在来島民」の歴史経験や「新島民」の移住に関する研究には一定の蓄積がみられ,戦後に難民化した「旧島民」の生活や帰島・補償運動については石原(2013; 2019)に詳しい.しかし「旧島民」の返還前後の活動や帰島後の生活については詳らかになっていない.そこで,本研究は故郷喪失を経て帰島し,島内に定住した「旧島民」の経験を明らかにすることを目的とする.手法としては,南方同胞援護会の刊行物等の分析と,聞き取り調査を用いた. 2.返還以前の「旧島民」の動向 強制全島疎開以降,難民化した「旧島民」は,東京都(島嶼部を含む),神奈川県,静岡県を中心に全国43都道府県および沖縄(大東諸島)に離散した(南方同胞援護会編 1966).帰島を待つなかで「旧島民」は経済的に困窮し,1953年の東京都による「小笠原島引揚民の生活状況調査」では全体の85%が困窮者とされている.いつ帰島が許可されるか見通しが立たない状況のため,現住地への資本の投下が困難であったことも困窮の要因となった(犬飼・橋本 1969).総理府が返還直前に全国の「旧島民」を対象に実施した悉皆調査では,帰島希望者は回答者全体の68%にのぼり,島別の内訳は父島2,276名,母島1,424名,硫黄島395名であった. 3.返還時の諸島内の状況と課題 戦前の小笠原諸島には, 5つの行政村(父島: 大村・扇村袋沢村,母島: 沖村・北村,硫黄島: 硫黄島村)が設置されていたが,米国施政権下では父島大村のみが居住地として利用され,その他の集落は放棄されていた.「旧島民」の帰島に際しては,住宅や上下水道,電気等のインフラ整備が喫緊の課題であった.そのため,小笠原返還をもって「旧島民」の帰島が実現したわけではなかった.特に米軍が駐留しなかった母島は,全島が亜熱帯の植物に覆われたため再開拓が求められ,定住には返還から5年の歳月を要した. 4.「旧島民」の帰島・定住の過程 返還後に帰島を果たした「旧島民」は,主に戦前の生活の記憶を持つ40代以上であり,少数の若者は親の意志に応えて随伴した島外育ちの戦後世代であった.帰島時期に着目すれば,同じ「旧島民」にも従事する職種により差異がみられた.例えば,漁業者は農業者よりも帰島・定住が早く,その要因としては以下の3点が指摘できる.第1に,米国施政権下の父島では,「在来島民」がグアムに冷凍魚を輸出していたため,最低限の港湾設備が整っていたこと.第2に,漁業者は,返還以前から返還後の漁協設立に向けて「在来島民」の漁業者と接触していたこと.第3に,戦前の農地が密林に戻っていたため,農業者としての定住を希望した人々は生業基盤の整備に時間が掛かったことである. これに対し,帰島が果たされなかった「旧島民」も存在する.一部の硫黄島出身者は父島・母島に移住し帰島を待ったが,現在まで帰島は実現していない.また,小笠原復興計画では,インフラ集約を目的として「一島一集落」が基本方針とされ,父島大村地区と母島沖村地区の優先整備が行われた.そのため,他集落出身者は帰島できても帰郷できない状況が続いた.本発表では,以上のような文書資料から得られた「旧島民」の帰島・定住の過程を,聞き取り調査の結果と照らし合わせることで,生きられた経験として論じる.文献 石原 俊 2013.『〈群島〉の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島,日本・アメリカ,そして太平洋世界』弘文堂. 石原 俊 2019.『硫黄島』中央公論新社. 犬飼基義・橋本 健 1969.『小笠原――南海の孤島に生きる』日本放送出版協会. 南方同胞援護会編 1966.『小笠原関係実態調査書元居住者名簿編』南方同胞援護会. [付記] 本研究は「阿部英雄史学地理学科研究奨励金」および 「明治大学大学院生研究調査プログラム」の補助金を使用した.
著者
高岡 貞夫 井上 恵輔 東城 幸治 齋藤 めぐみ 苅谷 愛彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.35, 2023 (Released:2023-04-06)

1.はじめに ジオ多様性と生物多様性の関係は理論的には確立されているものの、この関係を実証的に示す研究が十分に行われているとは言えない。両者の関係を探る研究はしばしば大スケール(大陸規模,国土規模)におけるグリッドセルデータを用いたGISベースの研究として行われるが、両多様性の関係の背景にある生態学的なプロセスを直接的に理解するには、グリッドセルにデータ化できない環境の特質も含めて、両者の間の複雑な関係を小スケールの地域研究として行うことが必要であろう。本講演では山地の池沼を例に検討した結果を示す。2.山地池沼のジオ多様性 中部山岳地域の標高2000m以上の地域にある、面積約50m2以上の池沼304 個について、その成因を地形と対応づけて整理した結果、池沼は線状凹地、地すべり移動体、圏谷底、火山地形(火口、溶岩台地など)などがつくる凹地に形成されていた。しかし凹地さえあれば池沼が形成されるということではなく、決定木を用いた分析によれば、気候(特に積雪深)や地質など地域的な条件を背景に池沼が成立していることが明らかになった。池沼の規模や標高分布は池沼の成因別に特徴があり、池沼の古さも成因と関係があると推察される。 上高地周辺の池沼に関する現地での観測や観察によれば、水質や水温、水位の季節変化、消雪時期、周囲の植生の特質は、地形と結びついて形成されている池沼の成因ごとに特徴がある。したがって、池沼に生息する生物の多様性には、池沼の成因と関連づけて理解できる部分があるものと考えられる。3.山地池沼の生物多様性(1) 水生昆虫 上高地周辺の高山帯・亜高山帯に存在する23池沼の止水性昆虫相を調べたところ、7目15科19種が確認された。これらの池沼は群集構造に基づいて4つのグループに分類され、それらは圏谷底に位置するもの、主に線状凹地に位置するもの、焼岳火口を含む前二者以外の主稜線付近に位置するもの、梓川氾濫原に位置するものであった。圏谷底の池沼では幼虫期に砂粒を巣材に用いる種群が優占し、線状凹地の池沼では水際の植物を利用して倒垂型の羽化を行う種や葉片・樹木片を幼虫期の巣材に用いる種が優占していた。梓川氾濫原では、流水環境にも適応した種群が優占していた。マメゲンゴロウについて遺伝子マーカーを用いた集団遺伝解析を行った結果、近接する池沼では遺伝構造が類似する一方で、特定の山域に集中するハプロタイプも検出された。以上のことから、種レベルの多様性は池沼の成因に結び付いた環境条件の違いによって生み出され、遺伝子レベルの多様性には、分散の障壁となる尾根や谷といった小地形・中地形スケールの地形がかかわっていると考えられる。(2) 珪藻群集 同地域の45池沼において、池底の表層堆積物に含まれる珪藻を殻の形態にもとづいて分類したところ、75分類群以上が確認された。これらの池沼は群集構造に基づいて4つのグループに分類され、それらは圏谷底に位置するもの、線状凹地に位置するもの、梓川氾濫原に位置するもの、氾濫原上の流れ山群内に位置するものであった。各池沼に出現する分類群はECやpHといった水質の他に、池沼の面積や周囲の植生に影響を受けていると考えられる。また、線状凹地に位置するグループには、梓川の左岸側稜線に集中して分布するグループと流域内に広く分布するグループが含まれる。これらのことから、珪藻群集の構造は、池沼の環境(植生発達や水質)と分散の歴史の双方の影響を受けて成立していることが示唆される。池沼の環境は地形と関連した池沼の成因と結びついて形成され、一方で、小地形・中地形スケールの地形がつくりだす距離や標高差が分散に対する障壁として働いている可能性がある。止水性の珪藻は水生昆虫よりも相対的に分散が難しいと考えられるが、このことが種相当のレベルの多様性においても分散の影響が表れる原因になっていることが示唆される。4.今後の課題 これまで、ジオ多様性や生物多様性という用語が使われなかった場合も含めて、植生(植物)についてはジオ多様性との関係についての研究が地理学分野においてなされてきた。山地地形の研究の進展によって地形の形成過程や年代に関する理解が一層深まる中で、今後取り組むべき研究課題は少なくない。氷期の遺存種的な性格を持つ植物の、分布の成因の解明などはその一つであろう。 他方、地理学において山地の野生動物に関する研究は進んでいない。移動性の高い動物は、その分布の特徴を地形に関連づけて理解することは必ずしもできないであろう。しかし、潜在的な分布頻度が、地形を軸とするジオ多様性と関連付けて理解できれば、動物と生息環境の関係を空間的にとらえる視点が得られる。このことは、生物多様性の保全を考えるうえで重要である。
著者
大西 健太
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.136, 2023 (Released:2023-04-06)

アニメーション産業は「働き方改革」によって産業構造規模での変化が見られている.東京における産業集積内では大きな変化を求められ,地方への進出も増加傾向にある.本稿では,こういった状況下にあるアニメーション産業集積の動向に関して,集積内部の外部経済や外部不経済の面から考えていきたい.本研究では聞き取り調査及び報告書類を用いて検討・整理を行った. 結果を端的に述べると,外部不経済が進みつつあることがわかった.アニメーターが集積内の柔軟な専門家として流動的に業務を行っているが,勤務時間や報酬に問題があった.これらの改善が求められ,アニメーターの社員化や深夜業務の停止が行われているが,制作会社にとっては固定費の増加になり,負担が生まれている.また,人材不足の解消や人材育成のジレンマを乗り越えるために賃金が上昇し,経営面でも悪化傾向にある.その結果,デジタル化の助力もあり,地方への制作拠点の移転などが起きている.
著者
栗林 梓
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.184, 2023 (Released:2023-04-06)

Ⅰ はじめに 日本では大学進学率が上昇し,同年齢人口の50%以上が大学に進学するようになった.しかし,中には,経済的,心理的負担の問題から離家を伴う大学進学を諦める者もいる.大学進学・学生生活における学生の経済的,心理的負担を軽減し,彼ら/彼女らの教育を支えていくことは,社会的に重要な問題といえる. このような問題へのアプローチの一つとして,教育の地理学的研究においては学生の教育空間を多様な関係性の中で捉え直そうとする動きが強まっている(中澤 2022).栗林(2022b)は,中でも住まいとの関係性に注目し,上述のような問題にアプローチする可能性を示した.住まいの中でも学生の経済的,心理的負担の軽減という意味では学寮に期待が寄せられてきた(例えば, 日下田 2006).しかし,その意味を考察するには,寮生が大学進学・学生生活の中で学寮をどのように位置付け,経験してきたのかを解明しなければならないが,そのような議論は十分になされてこなかった. Ⅱ 研究目的・方法 そこで,本発表では学寮の一形態である県人寮に着目して,大学進学・学生生活においてそれらが経済的,心理的に学生を支える可能性と課題について明らかにすることを目的とする.ここで特に県人寮に着目したいのは,進学先での同郷者の存在が,大学進学・学生生活において心理的な支えとなる可能性が考えられるためである(遠藤 2022).また,県人寮の事例として長野県の県人寮の1つである信濃学寮(男性専用)を取り上げる.信濃学寮は全国学生寮協議会に加盟する41の県人寮の中でも,寮費が最も安価な部類である.また,定員が100名を超える比較的規模の大きい11の県人寮の1つである.さらに,長野県は大学教育の需要の割に大学教育の供給が少ない県のひとつであり,大学進学にあたっては経済的,心理的負担を伴う離家が必要となる場合が多い(栗林 2022a).以上,負担の軽減やデータの入手可能性といった側面から信濃学寮に着目することに一定の意義があると判断した. まず,県人寮の歴史や実態を把握するために,県人寮に関する新聞記事や運営母体の会誌を収集するとともに,信濃学寮の事務局に対して聞き取り調査を行なった.また,大学進学・学生生活における県人寮の可能性と課題について考察するため,寮生に対するアンケート調査を行なった(90部配布,71部回収).アンケート調査では寮を知った契機や入寮理由,寮生活のメリット,デメリットなどを中心に基礎的な事項を把握した.さらに,卒寮前の寮生を対象に,聞き取り調査を行なった(継続中).聞き取り調査では,アンケートの回答に関する質問に加え,大学進学までの人生や学生生活,将来展望などについて寮生に自由に語ってもらい,1時間〜1時間半程度の生活史を聞き取った. Ⅲ 結果および当日の議論 いま東京の県人寮は減少傾向にある.これは,経営難,老朽化,入寮生の減少によるところが大きい.1933年に完成した信濃学寮も入寮者は減少傾向にある.それでは東京の県人寮は役目を終え,不要になったのだろうか? 筆者は,調査結果からも,そのような結論は早計であると主張したい.例えば,信濃学寮の強み(魅力)として,60名が「経済的負担」挙げている一方で,50名が「食事」を,30名が「寮生間交流」を挙げている.寮生の語りからは,これらが学生生活における心理的な支えとなっていることがわかる.もちろんこれらの要素に価値を見出す程度には個人差がある.しかし,やはり寮生の語りからは,寮生が信濃学寮をホームとすることにより学びの継続を可能としている側面があることを理解できる.各地の県人会がその意義を変化させながら存続してきたように(山口2002),信濃学寮も運営母体や理念,役目を変化させながら,長野県出身子弟の大学進学・学生生活を支え続けている. 発表当日は,アンケート調査の結果や学生の語りを拠り所としながら,上述の議論を深めてみたい.また,大学進学おける離家や,彼ら/彼女らを都市空間の中で捉えようとする理論,概念,先行研究での議論が,教育を取り巻く構造の中で,どうにかして東京に進学し学びを継続しようとする学生の存在を周縁化してしまう恐れがあることに若干の批判的検討を加えながら考察を展開したい.
著者
船引 彩子 中村 絵美 田代 崇 林崎 涼 亀田 純孝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.251, 2023 (Released:2023-04-06)

1. 北海道の湿原開拓 北海道南部,渡島管内山越郡長万部町に位置する静狩湿原は,太平洋(内浦湾)に面した海岸平野に形成された湿原で,北海道の低地に発達する高層湿原の南限とされている.当地では戦後の食糧増産を目的に進められた開拓により,200ha以上の面積の高層湿原を含む,1950haの湿地が失われた.本稿では静狩湿原の戦後開拓とその後の変化について,静狩湿原の開拓が進められた時代背景や気象条件,具体的な戸数や生業の変化,近隣自治体との比較から,論考を行った. 2. 北海道における戦後開拓と酪農 戦後における北海道の開拓地で,その後の離農や酪農への転換などの過程が調べられた研究例は多い.道東の根釧地区では1932年の大冷害をきっかけとして乳牛飼育が普及し始めた.道北の日本海側に位置する上サロベツ原野では戦後の緊急入植後,1950~1965年に冷害による離農の増加と酪農専業への転換が進み,第二次世界大戦後の酪農振興法(1954)も乳牛頭数を増大させている.3. 静狩湿原の気候 長万部町が面する内浦湾では,夏にオホーツク海高気圧の影響を受け,やませによる冷夏となり,海霧が発生することも多い.気象庁のデータによると、長万部町の夏季(6〜8月)の月平均日照時間は道東で酪農のさかんな別海町よりはわずかに長いが,米作りのさかんな道央の岩見沢市,ジャガイモ生産のさかんな道東の帯広市などより短い. また同じ道南地域においても,長万部町は日本海側に近い自治体より日照時間が少ない傾向がある. 長万部町に隣接し,同じく内浦湾に面する八雲町では,早くに水稲栽培を試みたが失敗しており,その理由の一つに夏季の海霧による日照不足が挙げられている(安田,1964). 冷涼な気候の道東や道北では農地開発が盛んに行われず,湿原面積の減少が道央や南西部ほどではなかったとされる.しかし本研究で対象とする静狩湿原の場合,緯度が低い道南地域の中では比較的冷涼な気候であるが,農地開拓のために湿原の9割以上が失われており,個別のケースとして検討する必要がある.4. 開拓地の集約と酪農への転換 静狩地区では戦後の開拓当初,一戸当たり7.5haの土地をあてがわれ,100戸以上が入植した.当初は稲作やジャガイモの栽培を想定していたが,現在は50ha以上の農地を持つ2戸の農家が酪農に従事している. その理由としては近隣で第一次世界大戦後から酪農先進地域であった八雲の影響も強いが,長万部町の気候が冷涼で稲作や畑作が難しかったこと,開拓地での離農者の増加や農用地転売が一戸当たりの農業経営面積拡大につながり,農家戸数が減少したことなどが挙げられる.
著者
岩崎 亘典 小野原 彩香 安達 はるか 野村 英樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.133, 2023 (Released:2023-04-06)

2022年度より高等学校で必修となった地理総合では,地理情報システムの活用が一つの柱であり,教科書では地理院地図やひなたGIS等が紹介されているが。しかしこれらのツールでは,投影法や統計情報活用にあたり,独自データを用いた実習が困難である。また,新型コロナ感染マップや人流マップのように,データサイエンスでの地理学の重要性も高まっている。本発表では,地理総合でのGIS利用促進と地理分野でのデータサイエンス活用のための,Pythonを使用した地理学習コンテンツについて報告する。 実習のための環境は,ブラウザ上でPythonのプログラムの入力,実行が可能なGoogle Colaboratory(以下,Colab)を用いた。学習コンテンツの内容は,地理総合の教科書を参考とし,以下のリストの内容を予定している。 ・Pythonを用いた地図作成および投影法 ・APIを用いた統計情報の取得と得階級区分図の作成 ・気象メッシュとグラフの重ね合わせ地図・防災のための地形図の3D表示作成したコンテンツは,CQ出版社が発刊するインターフェイス誌上で連載記事として公表している。2022年3月までに3回目の記事までが公表される予定である。 紙媒体で発行する特性を活かし,コードや作成した地図に解説を加え,理解しやすいように努めた。コードを変更することで図法の違い等を実習できることがPythonの利点である。また,コードで地図を扱うため再現性を高い点が,データサイエンス的視点から有効である。本コンテンツは,学校教育に活用してもらいたい観点から,教員は電子版を無償入手可能である。ご興味のある方は,お問い合わせ頂きたい。
著者
麻生 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.298, 2023 (Released:2023-04-06)

1.はじめに 無教会主義は内村鑑三(1861~1930)によって創始されたキリスト教のグループの一つであるが,指導者や体系化された神学,儀式化された聖礼典,礼拝堂などを持たず,「既成の教会論を転倒」した運動であり,彼らの礼拝の場は「大自然という教会堂」であった(赤江 2013).すなわち既存のキリスト教の組織化,体系化された信仰実践ではなく,『聖書之研究』などの雑誌の読者によって支えられる「紙上の教会」であり,日常生活に根差した信徒たちそれぞれの場における祈りや聖書学習などの信仰実践であった(赤江 2013).このような無教会主義キリスト教の姿は近年人類学や地理学などで注目されている「生きられた宗教 Lived Religion」(McGuire 2008)とも関連すると考えられる.本発表は無教会主義キリスト教の詳細な記録を残した斎藤宗次郎(1877~1968)が描いた様々な風景画を通して,視覚資料による無教会主義の思想の検討を試みる. 2.『聴講五年』の挿絵 『聴講五年』は上・中・下の三巻,合計670ページから成るテクストで,斎藤が花巻から東京に転居した後の1926年9月から内村が死去した1930年3月までのおよそ三年半にわたる記録で,内容は今井館や日本青年館などでの聖書講義の内容のほか,内村の言葉,内村の家族の様子,内村の最期の様子,斎藤と無教会関係者との会話や活動などを記録したものである.また,斎藤はこれらの記録を内村の下での活動中から執筆していたが,第二次大戦後に清書し,1953年に完成させた.斎藤はこのテクストに膨大な文章とともに風景や人物などの数十点の挿絵を描いている.挿絵は合計62点で人物が47点,それ以外が15点で,人物を多く描いていた.人物の描き方について,内村の姿を描く際は人物を比較的大きく描く一方,集会に大勢の人々が集う様子や内村邸の庭先の数名の関係者を描く際は比較的小さめに描いていた.これらの挿絵は本文の内容と密接に関係しており,斎藤が後世に伝えるべき記録として必要に応じて描いたと考えられる.この点は近世京都名所を描いた『都名所図会』の人物の描き方との関連も考えられよう(長谷川 2010). 3.挿絵に投影される無教会主義の思想 図1の左は1929年5月16日の夕方に斎藤が現在の世田谷区の楠林で,左は1930年1月18日に現在の杉並区荻窪の林で,それぞれ祈る場面を描いた挿絵である.『聴講五年』の中で斎藤が自ら祈る場面をいわばメタ的に描いたものであるが,注目すべきは祈る自身の姿だけでなく,周辺とはるか遠くの景観を描いている点である.斎藤にとっては自分が存在する周囲の空間,そして自身の目に映る遠景も含めたまさに「生きられる空間」こそが信仰の実践としての祈りや賛美などを行う,彼にとっての「生きられた宗教」たる無教会主義キリスト教の信仰実践の場であった.こうした挿絵は斎藤の無教会主義キリスト教の信仰と思想を視覚化したものだったのである.言い換えれば,こうした風景や景観を描いた視覚資料は単に歴史的な景観を復元するだけではなく,日常的な信仰実践やその思想の研究,すなわち宗教史研究や思想史研究との接続も可能な資料なのである. (本稿の作成にあたってはJSPS科研費基盤研究(C)19K01193の助成を一部使用した.)
著者
王 龍飛 千川 はるか 朱 澤川 銭 胤杉
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.208, 2023 (Released:2023-04-06)

Ⅰ はじめに 現在,日本に滞在する外国人の増加に伴い,それぞれのエスニック・グループが独自のエスニック・ビジネスを展開している。出入国在留管理庁のデータによると,とくに中国人が増加していることがわかる。山下(2010)は中国の農村には強固な地縁・血縁社会が残っており,親族の中の一人が海外に出稼ぎや留学に行き,ビジネスに成功すると、それを頼って郷里から人々が集まるようになり、異国の地に同郷グループが形成されていくと述べている。 大阪においても,このような強い繋がりをもつ中国人グループが存在すると予想される。とくに中国系の店舗は,同胞向けにビジネスを展開し,宣伝方法の利活用も変化させている。本研究では,大阪「ミナミ」周辺におけるエスニック・ビジネスに着目し,その集積状況を把握し,集積の背景を検討した上で,同胞向けビジネスの新動向として,新たな宣伝方法のあり方についても言及する。Ⅱ 対象地域の概要大阪中央区南部(以下、ミナミ)は近年エスニック系店舗の増加・集積が顕著な地域であり,外国人向けに観光地化されたエスニック・タウンとは異なり,主に同胞向けにビジネスを行っている。出入国在留管理庁のデータによると,2022年6月末時点で大阪市の24区では,在留中国人が最も多い区は浪速区で,次いで中央区となっている。2018年以降は,中央区の在留中国人の数の伸び率は浪速区よりも高くなっている。中央区における在留中国人の数が浪速区を抜いて1位になるのは時間の問題だと思われる。 このようにエスニック・ビジネスの集積が進むミナミだが,その実態は粉河(2017)による報告があるのみで,それからわずか5年で大きく変化している。本研究では,そうした変化にも注目しつつ,特に成長著しい中国系ビジネスを取り上げる。Ⅲ 結果と考察現地での観察調査とGoogle Mapおよびインターネット情報から,ミナミには270軒のエスニック系店舗が確認され,そのうちの6割を中国系店舗が占めていることが分かる。アンケートおよび聞き取り調査により,これまでのところ合計21軒から情報を得ることができている。 対象地域では,もともと韓国系の飲食店が多く立地していたが,2017年ごろから中国からのインバウンド需要が急増したことで,空き店舗には,中国人経営による観光客向け免税店が多く入居するようになった。2020年からのコロナ禍によって,訪日観光客は激減したが,中国人による日本製品への需要は衰えず,インターネットで注文した日本の商品を中国へ発送するための国際物流店が増加した。一方,飲食店は大阪に居住する同胞向けのものが多く,コロナで影響を受けながらも店舗を維持している。このように,コロナ禍を挟んだ時期でも中国系店舗数は増加・維持されながら,その業種・業態の変化が見られることが分かった。 ミナミおける中国系店舗の集積については,2つの要因が考えられる。1つは,中国系不動産や富裕層が同地域に多くの土地や建物を保持しているという点である。2点目として,この地域周辺には日本語学校などの教育機関や企業が集積しており,定住中国人も多く,難波や心斎橋といった一大観光地にも隣接していることから,定住者と観光客の双方をターゲットとしたビジネスを展開できる場所であるといえる。 集積の手段や顧客の誘致については,SNSが発揮した効果が大きいと考えられる。聞き取りをした21軒の店舗のすべてが中国系SNSのWeChatを利用して店のメニューやキャンペーンを宣伝している。また,やはり中国SNSである小紅書(RED)を利用して宣伝している店は12軒,抖音(TikTokの中国版)の利用は4軒あった。これらは決済機能もついており,宣伝だけでなく商品売買にも利用される。今後も複数の中国系SNSを利用したビジネス拡大の動きは容易に予想できる。参考文献粉川春幸 2017. 大阪市中央区南部における複数のエスニック集団によるエスニック・ビジネスの実態.人文地理69(4): 447-466. 山下清海 2010. 『池袋チャイナタウン 都内最大の新華僑街の実像に迫る』株式会社洋泉社出版.
著者
長井 彩綾 根元 裕樹 松山 洋 藤塚
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.256, 2023 (Released:2023-04-06)

2011年に発生した東日本大震災の,地震後の津波は甚大な被害をもたらした.高田ほか(2012)は,東日本大震災の津波による神社の被害調査によって,スサノオノミコトを祀る神社,熊野系,八幡系の神社の多くは津波被害を免れた一方,アマテラスオオミカミを祀る神社や稲荷系の神社の多くが津波被害を受けていたことを明らかにした. 長井ほか(2022)では,先行研究で挙げられた「スサノオノミコトを祀る神社は津波被害を回避できる」という点に着目し,東京都を対象にスサノオノミコトを祀る代表的な神社である氷川神社の鎮座地の地形的特徴を調査した.氷川神社は武蔵一宮であり,埼玉県にも多い神社であることから,本研究では旧武蔵国を対象範囲を広げて氷川神社鎮座地の立地特性を調べた.さらに,神社と洪水浸水想定区域との位置関係を調べることで氷川神社の被災リスクについて考察した.本研究では,埼玉県神社庁ホームページ,『東京都神社名鑑(上・下)』(東京都神社庁1986),神奈川県神社庁ホームページに記載された神社のうち,旧武蔵国に該当する埼玉県、東京都、神奈川県横浜市と川崎市の土地条件図がある範囲に鎮座する2,848社(うち氷川神社195社)を対象として分析を行った(東京都の島しょ部,他社の境内神社を除く). 対象とした神社の鎮座地住所を緯度経度へ変換した後,ArcMapにて,航空写真を用いて社殿の位置へ合わせた.傾斜地に関する分析は,基盤地図情報数値標高モデル5mメッシュを用いて,神社が傾斜地付近に鎮座するか確認した.高低差を調べるために,ArcMapのフォーカル統計機能を用いて半径10メッシュ(50m)の標高の最大値と最小値を算出し,比高を求めた.比高1m未満は平坦地とした.地形分類は,数値地図25000の土地条件図を用いて,神社鎮座地の地形分類を抽出した.神社から河川までの距離は,現在の国土数値情報河川データの他,地形分類のうち,低地の一般面,凹地・浅い谷,頻水地形,水部を河川として神社との距離を算出した.洪水浸水想定区域との位置関係は,国土数値情報の関東地方整備局,埼玉県,東京都,神奈川県のデータを用いて,洪水浸水想定区域と重なる神社があるかを調べた.旧武蔵国の神社は比高の大きい場所に沿って鎮座していたが,氷川神社は,その他の神社と比較すると,鎮座する場所の比高は特別大きいものではなかった.地形分類の分析で,旧武蔵国の神社は,台地・段丘や低地の微高地といった浸水しにくい場所に多く鎮座しており,氷川神社は特に台地・段丘に鎮座するものが多かった.河川までの距離について,旧武蔵国の神社の多くが河川まで100m未満に鎮座しており,氷川神社とその他の神社で平均値の差の検定を行ったところ有意差はなかった.神社と洪水浸水想定区域との位置関係では,荒川沿いの低地や大宮台地より東側の低地で多くの神社が浸水した.氷川神社は,荒川沿いの低地にも多く鎮座する.そこでは,浸水するおそれのある氷川神社がその他の神社よりも多く,浸水深も深い場所にあることが明らかになった.なお,荒川の支流沿いの氷川神社は浸水しにくいことがわかった.
著者
本多 忠素
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.122, 2023 (Released:2023-04-06)

1. はじめに近年,日本において墓は多様化しており,樹木葬墓地や合葬による永代供養墓など選択肢が増えている.こうした変化は,都市の墓地のあり方にも表れている.特に都市部において新規墓地の開設は,一定の広さを持つ土地を確保したり,設置のための法的要件を満たしたりする必要があるため容易ではない.その一方で,遺骨を収蔵する施設である納骨堂は増加しつつある.こうした墓の多様化のほか,近年では信仰の希薄化も進行しており,これらは墓石や宗教用具の市場動向にも表れている.墓石を含む石工品製造業の出荷額や,仏壇などの宗教用具の販売額は,1990年代以降大幅に減少している.また,宗勢調査からは多くの寺院が,檀家の減少により財政的苦難にあることが明らかになっている.これらを踏まえ本研究は,都市の納骨堂の増加を,1990年以降の墓地・納骨堂の供給主体の動向から把握することで,利用者による墓需要だけでなく,供給主体の経営的状況を踏まえた墓の多様化の動向を考察することを目的とする.2. 先行研究 現代の墓地に関する研究は,民俗学や社会学などの分野で墓制や祭祀性等の議論があるほか,地理学においても墓地の立地をはじめとした研究がなされてきた.しかし,墓の選択が多様化する中で,墓石が配された墓という形態以外の「墓」の空間的様相は十分に論じられてこなかった.加えて,行政や民間,他学問分野における今日の墓需要の分析はしばしばみられるものの,その供給主体から論じたものは少ない.こうした先行研究の傾向を踏まえ,本研究では都市部における納骨堂の増加の背景を,供給主体に着目して検討した.3. 研究対象と調査方法本研究の調査対象地域は,近年の納骨堂の施設数の増加率が著しく動向がより観察しやすい大阪市とした.研究対象については,納骨堂の施設増加は宗教法人による設置が大半であり,そのなかでも多くが仏教寺院によるものであることから,公営や財団運営などのものを除いて仏教寺院に絞った.そのうえで寺院や石材店,仏具店,納骨壇製造業者等への聞き取りを行い,それら供給の様態と納骨堂の増加が進む背景を把握することとした. 4. 結果と考察聞き取りからは,寺院,石材店,仏具店の三者で,各事業の財政的状況を改善しようとする工夫が確認された.そうした供給側の工夫が,利用者による多様な墓需要以外での,納骨堂の増加の一要因となっている.また,こうした納骨堂を所有する寺院の内訳からは,宗旨や祭祀性といった寺院の宗教性と納骨堂の所有との間の関連を認めることはできなかった.これは東京都23区を対象とした横田・八木澤(1990)の指摘とも符合する.しかし,30年前の東京などの都市において,納骨堂は一時的な遺骨の預け先という旧来のイメージ(横田・八木澤 1990:264)であったが,今日では恒久的な利用が一般化している.このように墓地や葬送のあり方は,半世紀足らずで既に異なる様相を呈しており,それらの研究分野ではこうした今日的変化に対して,より一層の注意が必要であると思われる.今後は,大阪府の郊外・農村部にも調査対象範囲を広げることで,納骨堂の増加の地域的特徴を明らかにし,加えて納骨堂を墓地と比較して,その景観的,形態的特徴を考察することを課題としたい.参考文献 横田 睦, 八木澤 壮一 1990. 納骨施設の現状からみた,東京都区部における墓地以外の祭祀空間に関する考察. 都市計画論文集25: 259-264.
著者
原田 歩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.244, 2023 (Released:2023-04-06)

1.はじめに 日本の都市はその成立と発展の基礎を都や港町,門前町や宿場町におくなど、その起源は様々である。なかでも近世城下町は、県庁所在地をはじめとする多くの主要な都市の起源となっているため、その空間構造や都市計画の変化などに着目して研究されてきた。近世城下町は、侍町・町人町・寺院地を主要な構成要素とし、各要素の相互関係や配置の変化から支配者層の意図に迫ってきた。 本研究は、城下町を形成する3つの要素の中でも寺院地に着目し、近世城下町の成立から藩政の終焉にかけて,寺院配置の変遷を分析することによって,藩主の都市設計の意図の変化を明らかにすることを目的とする。藩主の治世ごとに寺院の分布図を作成し、藩政や周囲の大名との関係、江戸幕府の支配と関連付け、藩主の意図やその変化の特徴を考察する。 2.近世城下町研究における寺社地の位置づけ 既往の城下町研究では、都市の消費地である「侍町」と生産地である「町屋」を研究対象としたものが多くみられる。その一方で寺社地は、寺院集積地である「寺町」が防御機能を担っていることが指摘されていた(矢守1974;久保2013)。 大阪城下町を事例に寺院と「寺町」型・「町寺」型・「境内」型に類型化し、その役割を考察した研究(伊藤1997)や江戸城下町において寺院が呪術的役割から余暇空間機能に変化したことを示した研究(松井2014)、江戸の明暦の大火後の寺社地と都市構造の変化を考察したもの(黒木1977;岩本2021)など防御的機能に留まらない寺院の役割が明らかになっている。しかし、こうした研究は一事例にとどまっており、今後さらなる事例の蓄積が求められている。 これらの研究は城下町整備が整った後の時代に描かれた絵図を用いて分析されることが多く、城下町形成期の変化を分析することはできていない。 城下町形成期に焦点を当てて分析することは、城下町を整備した藩主の都市計画に迫るうえで有効であり、戦乱の世から泰平の世に移り変わるなかで、軍事的役割が重視された時代から経済活動の場としての役割が重視 されるようになるまでの変化に迫ることが可能となる。 3.名古屋城下町における「寺社地」 名古屋城下町は,1609(慶長14)年,家康の九男義直の居城として,天下普請によって築城された。清須城の軍事的脆弱性や中世以降の無計画な発展に伴う城下町拡大の限界を補う目的で,清洲城に代わる新たな近世城下町として整備された。 他の城下町が中世山城に代わる新たな城として整備されたのに対し,名古屋城下町は近世城下町の代替として整備されたため,あらかじめ家臣団や町人の規模を把握することが可能であり,綿密な計画に基づいて建設されている。 その構造は次のようになっている。町人町が碁盤割で城下の中心に配置され,侍町は町人町を覆うように位置している。寺社地は外延部の特定の場所への集積地および碁盤割の町人町の中心(会所地)に置かれた。 名古屋城下町にみられる寺社地の特徴として,宗派ごとに形成された寺院集積地(寺町)が形成されたこと, 町人町の会所地に寺院が置かれたことが指摘できる。これらの特徴は他の城下町にもみられる特徴(宗派ごとの寺町は広島城下町,会所地の寺院は熊本城下町にみられる。)であり,名古屋城下町における配置意図を明らかにすることは,他の城下町の分析にも示唆を与える。特に、名古屋城下町は複数の寺院集積地を持ち、他の城下町で指摘される防御的機能だけでは説明できない寺院配置がみられる。 そこで前述のとおり,名古屋城下町は清須城からの移転が多く,初代義直と2代光友の治世に多くの寺院が建立されているため、本研究では,この時代に注目し,清洲からの移転寺院,他からの移転寺院,創建寺院と分類し,宗派の特徴や熱田神宮との関係とともに考察する。 参考文献 伊藤 毅1997.近世都市と寺院.吉田伸之編.『日本の近世 第9巻都市の時代』81-128中央公論社. 岩本 馨2021.『明暦の大火「都市改造」という神話』,吉川弘文館. 久保由美子2013.城下町・熊本の街区要素の一考察. 熊本都市政策2:63-68. 矢守一彦1974.『都市図の歴史 日本編』, 講談社.