著者
藤井 貴志
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.95-110, 2014-11-15 (Released:2017-06-01)

安部公房「他人の顔」、川端康成「片腕」、澁澤龍彦「人形塚」は昭和三十七年末から約一年の間に執筆されたテクストであるが、その背景にM・カルージュの指摘する<独身者の機械>という近代の神話を見出すことができるだろう。<独身者の機械>とは「人間的感覚の喪失」および「女性との関与や交感の不可能性」を<独身者>および<機械>のメタファーで捉えた概念だが、三篇のテクストはいずれも<異形の身体>を通してしか外界(他者)と関係を持つことができない主体の自己回復の虚しい試みとその挫折を描いている。澁澤自身のカルージュ受容、また土方巽の暗黒舞踊を通じた<物>としての<異形の身体>への関心、それと並行したベルメールの球体関節人形に纏わる言説を探り、<独身者の機械>の時代ともいうべき昭和四十年前後の言説状況を浮上させる試みである。
著者
藤井 貴志
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.49-64, 2016

<p>花田清輝は昭和二十四年に発表した「ドン・ファン論」において、「近代の超克」を果たす為には〈人間中心主義〉から〈鉱物中心主義〉へのパラダイムシフトが不可欠であると記している。疎外された〈人間〉の主体性の回復に躍起になる同時代の〈主体性論争〉を挑発するかのように、花田はむしろ「おのれ自身を、客体として、オブジエとして、物体として」(「わが物体主義」)捉える必要性を強調し、自動人形や動く石像、あるいは〈物〉に化していくプロレタリアートといったモティーフを〈鉱物中心主義〉のもとに変奏していく。本論は、〈物〉になる〈人間〉という一見疎外論的なイメージを逆手に取り、謂わば〈人形〉のような非-主体を立ち上げることによって画策された花田の〈革命〉のヴィジョンを横断的に追跡し、その可能性を再検討する試みである。</p>
著者
藤井 貴志
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.95-110, 2014-11-15

安部公房「他人の顔」、川端康成「片腕」、澁澤龍彦「人形塚」は昭和三十七年末から約一年の間に執筆されたテクストであるが、その背景にM・カルージュの指摘する<独身者の機械>という近代の神話を見出すことができるだろう。<独身者の機械>とは「人間的感覚の喪失」および「女性との関与や交感の不可能性」を<独身者>および<機械>のメタファーで捉えた概念だが、三篇のテクストはいずれも<異形の身体>を通してしか外界(他者)と関係を持つことができない主体の自己回復の虚しい試みとその挫折を描いている。澁澤自身のカルージュ受容、また土方巽の暗黒舞踊を通じた<物>としての<異形の身体>への関心、それと並行したベルメールの球体関節人形に纏わる言説を探り、<独身者の機械>の時代ともいうべき昭和四十年前後の言説状況を浮上させる試みである。