著者
藤原惠洋
出版者
日本デザイン学会
雑誌
デザイン学研究 (ISSN:09108173)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.53-60, 1992
被引用文献数
1

制限図は,日本近代の国家神道体制下において造営・整備される神社の様式・規模・社殿配置を規制した。本稿では,まず明治初期の制限図検討過程を通し,限られた予算下において国家神道体制の拠点施設として神社の再整備が必要とされたため,適度な規模内容を持った全国一律の様式的普遍形式を生み出す規制的標準設計の役割を制限図が担ったことを究明した。次に検討期を経て整理された制限図の規制内容が,(1)神仏習合の近世神社を遡り古式遵奉をめざすため,流造本殿・入母屋造拝殿を中心とする独立社殿により構成された。(2)社殿の配置・平面・規模を決めた平面的規制と,立面姿絵・仕様表示による造形的規定から成る意匠規制の性格を持つ。(3)大中小の社格に応じた規模と仕様の差異を厳格に見せた,という3点に代表されることを明らかにした。一方,制限図が別格官幣社創建を中心に明治年間から大正期明治神宮造営頃まで適用されながらも,明治34年以降,伊東忠太に主導され制限図批判が展開した点を考察,昭和初期における制限図の終末を示した。
著者
藤原 惠洋
出版者
日本デザイン学会
雑誌
デザイン学研究 (ISSN:09108173)
巻号頁・発行日
vol.1992, no.90, pp.57-64, 1992-03-30 (Released:2017-07-25)

伝統的細部である唐破風曲線は,明治以降の伝統的建築の評価過程で編年的指標を与えられる一方,和風建築の重要な意匠要素として応用された。本研究では,まず明治以降の建築様式史研究を基に,時代が古代平安期まで遡れば唐破風曲線は緩勾配で美しく,中世期以降の曲線は勾配を強くしながら桃山・江戸に至ると急勾配になり見苦しくなる,という形からの編年的評価が行われた点を明らかにした。次に,明治中期以降の和風建築の設計に様式設定が加わる経緯を示し,唐破風曲線の創造的構成が様式設定の時代目標を近世期から中世期・古代期へと順次遡らせた変遷過程を見出し,実際の遺構例を通し明治30年代から大正初期へかけた近世桃山様式,明治40年代以降の中世鎌倉様式,大正以降の古代平安様式へ移行した経緯とその内容を明らかにした。また,編年的評価を基にした応用は建築家の様式設定的設計に多く見られ,一方,工匠的系譜には技術的視点を有した独自の評価と応用があった点も究明した。
著者
藤原 惠洋
出版者
日本デザイン学会
雑誌
デザイン学研究 (ISSN:09108173)
巻号頁・発行日
vol.1992, no.91, pp.61-68, 1992-05-01 (Released:2017-07-25)

創建神社は明治以降の創設になり国家神道思想より祭祀と由緒を創造した神社であったが,基本的な性格は,国家神道体制の教化拠点としての役割,国庫支出による国家的事業としての創建,古式遵奉に則り祭祀に応じた社殿意匠の設定,近世期神仏習合を排除し簡素な神社施設の再構成といった点を共通項として見せた。具体的例として,創建神社の嗜矢である明治5年竣工の別格官幣社湊川神社に見られた本殿の春日造は地域的様式を反映させたものと言え,制限図に則った吉野神宮,独創的な神明造を見せた宮崎神宮,御所施設を移築した橿原神宮の初期創建神社4例を通し,建武中興の時代から神武天皇の再評価へ復古目標を遡行させながら見られた意匠的混乱が,明治中期に効力を発揮した制限図によりいったん回収され本殿流造に統一,明治後半期になると復古主義的発想と創造的発想との対立を生み出したことを究明した。