著者
藤本 博生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.p902-929, 1976-11

個人情報保護のため削除部分ありパリ講和会議を控えて、日本と中国の進歩的知識人は、ウィルソン主義と自らの民主主義的運動とをオーバーラップさせ、これを賛美した。だが、日本の外務省は、中国に対する帝国主義的野心を満たすため、一方で外交部に対する圧迫を続けるとともに、他方で人種差別撤廃に名を借りて欧米先進帝国主義列強を牽制した。民本主義者は、このような「人種案」を批判したけれども、国家主義者やブルジョア新聞は、それぞれの立場からこれを「支持」した。国際聯盟規約から人種差別撤廃条項が除外された時、日本の世論における国際協調的傾向は影をひそめ、東亜モンロー主義が高らかに唱えられた。中国では、ウィルソン主義への期待から一時は楽観的な雰囲気が人々の心を覆っていたけれど、「五大国」のひとつである日本の相変らぬ外交姿勢、とくに小幡公使の恫喝に、戦後世界もまた権力政治の支配する場であることが認識された。この認識を通じて、中国の進歩的知識人は共産主義へより一層接近した。こうして日本と中国は、その歩む道を決定的に異にすることとなったのである。