著者
藤澤 潤
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.1, pp.1-35, 2021 (Released:2022-01-20)

本稿は、1990年から91年にかけてのコメコン改革ないしはコメコン後継組織の設立をめぐるソ連の方針とコメコン内の交渉過程について分析したものである。コメコンに関する研究史では、この時期のコメコン内の動向を扱った研究はほとんどなく、1989年の「東欧革命」以降、コメコンは自然消滅したとする見方が今なお有力である。これに対して本稿は、旧ソ連・東ドイツのアーカイヴ史料をもとに、この時期のコメコン内の交渉過程を実証的に分析し、以下の結論を得た。 1990年以降のコメコン改革をめぐる交渉で、当初、ソ連はコメコンの枠内で経済統合を進めようとしたが、中欧3国(チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド)の反対を受けて大幅に譲歩し、協議を主目的とする権限の弱い国際経済関機構(OMES)をコメコンの後継組織として設立することに同意した。しかし、コメコンには欧州域外の国々も加盟しており、とくにキューバが非欧州加盟国に対する特別の配慮を求めてOMES規約案に反対し続けたことから、合意形成は遅れた。最終的に、1991年2月初頭には全ての加盟国がOMES規約案への調印に同意したものの、その直後に中欧3国は欧州共同体との個別交渉を優先することを決定し、非欧州諸国がOMESに参加することを理由に規約案への同意を撤回した。この中欧3国の方針転換の結果、コメコンは何らの後継組織を残すことなく解散した。このように、コメコンは求心力を失って自然消滅したのではなく、欧州情勢の急変やそれに伴う加盟国の方針の変化、さらには非欧州加盟国との関係などが複雑に絡み合って解散へと行きついたのである。