著者
袁 甲幸
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.127, no.7, pp.1-35, 2018 (Released:2019-07-20)

本稿は、府県庁舎営繕費の地方税移行過程を検討することによって、地方制度の変化がもたらした府県権力の性格変容を考察するものである。 府県庁舎営繕費の地方税負担を規定した明治十三年太政官第四十八号布告が出されるまで、府県庁舎は中央省庁と同質のものとされており、その営繕には国家の権威付けが意識されていた。そのため、庁舎は住民と距離の遠いものであり、新庁舎の落成に伴う行事にも、「官」「民」二元対立的な府県内の権力構造が反映されていた。 第四十八号の布告から施行までの移行期において、地方官の駆け込み上申に対し、中央政府は建前上、庁舎営繕を府県内一般の公同事務とみなし、目下の国庫支弁はあくまで地方税不足分に対する補助であるとしていた。ただし、茨城・群馬県の事例で示されているように、府県内の一部地域の「民意」から出た営繕要望が、府県会において「公論」としてまとまらなかった際にも、補助が認められた。そこにおける「民意」は、後づけられたものさえあったが、「民意」を調達するために地方官は、庁舎営繕と府県住民の福祉とリンクしはじめ、庁舎の情報を積極的に発信し、さらに「官」「民」二元対立的な権力構造を多少払拭しうる「牧民」像を語りだした。 やがて庁舎営繕費が地方税負担となり、府県会や世論においては、庁舎は国家権威ではなく「我々の府県」のシンボルとして認識されるようになった。一方、府県行政は府県会を通じて営繕費の予算を確保する以外も、住民に向けて庁舎をアピールし、「牧民」像に代わる「官民調和」論を唱え、より広範囲な「公論」を求めていた。 このように、税源の移行により、庁舎営繕事務が国家事務から府県内一般の公同事務へと変化したことにより、その施行には、広範な「公論」に依頼する必要性を増した。そのことで同事務を運営する権力の性格は、従来の国権から「公権」へと移りつつあったのだと理解できるのである。
著者
袁 甲幸
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.2, pp.37-72, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿は、明治前期に広く展開されていた府県庁「会議」(各部課署係の正副長ないし一般属官を構成員とし、議会的な議事規則を用いて府県内の重要事案を審査する諮問機関)を対象に、府県行政における意思形成過程の一端を解明することを通じて、近代国家形成期における「公論」の変容過程を考察したものである。 廃藩置県後、府県庁内の官吏と区戸長・公選議員とが交わる「官民共議」的な地方民会が一時に現れたが、公選民会の発達により官吏は徐々に除外された。しかし官側にも、意見集約の場と、対等な議論による意見形成の経路が求められていたため、明治ゼロ年代末から明治十年代初頭にかけて、多くの府県で「会議」が創出された。「会議」の誕生経緯、規則、および議事録からは、「会議」が府県行政、特に議会の議案審査など対議会事務において大きな役割を果たしていたことが指摘できる。府県会が成立したにもかかわらず、議会式な意思形成経路が行政内部に存続しつづけた理由は以下の二点が挙げられる。一つ目は、官僚制内部の階級差や専門性の分化がまだ希薄だったため、行政内部においても対等な議論および議論による意見集約が比較的に達成しやすかったということ、二つ目は、「会議」を構成する属官層が、その出自・教育背景に由来する「公論」観、すなわち「公論」とは「賢明」で「公平無私」な人物の「衆議」によって形成されるものだという認識に基づき、地域利害を反映する議会と異なる役割を自覚していたことである。その後、地方官官制の整備につれ「会議」は上層部のみの部局長協議会へと収斂されていったが、議会制の危機あるいは新たな課題に応じ、「会議」が再び姿を見せることも屢々あった。 このように明治前期においては、行政における「公論」が、「民」側の民会・府県会と、「官」側の府県属官層によって支えられていた「会議」と、すなわち「官」「民」双方の「衆議」で棲み分ける形により、異なる側面の「至当性」を確保しようとしていたと捉えることができるのである。