著者
西川 慧
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.022-041, 2020 (Released:2020-10-08)
参考文献数
21

本稿の目的は、インドネシア西スマトラ州のミナンカバウ村落社会を対象として、換金作物ガンビールの耕作開始によって社会関係がどのように変容したのかについて、現地の民俗観念を手掛かりとして論じることである。 筆者が調査を行っているテルック・ダラム村の人びとは、1990年代後半からガンビールを耕作するようになった。その背景には、慣習復興運動の結果として中央政府から返還された村落共有地が使用可能になったことがある。2010年代にはガンビールの買い取り価格が高騰したため、利益を求めて多くの人びとが共有地を開墾し、畑へと変えていった。先行研究では、共同性を強調する慣習法復興運動の理念にもかかわらず、生産手段の私有化と、その不均等な配分のために非人格的な資本主義的関係が出現したと論じられている。しかし、調査村落で見られたのは、仲買人から生産者への融資と母系親族関係を中心とした紐帯で結びつくパトロン=クライエント関係の拡大であった。 このようなパトロン=クライエント関係は、東南アジア農村研究の文脈ではリスク回避による生存維持の選好と、互酬性にもとづいた人格的なやり取りに特徴づけられるモラル・エコノミーの代表例として論じられてきた。しかし、調査村落で見られた仲買人と生産者の関係は、生存維持ではなく富の蓄積と消費を志向するものであった。彼らの関係を読み解くためには、人格的なモラル・エコノミーと非人格的な資本主義という二項対立から抜け出す必要がある。 そこで本稿では、母系親族を結びつける「感情(perasaan)」という観念に注目して仲買人と生産者のあいだで行われる取引を分析した。その結果として明らかになったのは、母系親族を中心とする人格的な社会関係が富の蓄積と消費のために動員される「「感情」の経済」であった。