著者
西川 純司
出版者
神戸松蔭女子学院大学学術研究委員会
雑誌
神戸松蔭女子学院大学研究紀要 = Journal of Kobe Shoin Women's University : JOKS (ISSN:2435290X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-9, 2020-03-05

かつてミシェル・フーコーが「生命=史」(bio-histoire)と呼んだ、人類と医学的介入の関係の歴史を記述することは、現在においても重要な課題として残されている。本稿は、戦前日本のサナトリウム(結核療養所)で主に結核患者を対象に行われていた日光療法という医療実践の一端を明らかにするものである。とりわけ、正木不如丘(1887-1962)が行っていた医療実践を事例とすることで、近代日本の結核をめぐる「生命=史」の端緒を開く試みとしたい。 明治以降の近代化を社会的背景に、結核は人びとの生を脅かす伝染病として大正・昭和初期の社会で蔓延していた。そうしたなか、日光(紫外線)に結核菌を殺菌する作用があるということが発見されると、1920 年代半ばまでには日本においても日光の紫外線を利用するサナトリウムが見られるようになった。しかし、実地での治療は容易ではなかったことから、富士見高原療養所の正木は日光療法を行うための最適な条件―日光浴場の配置や構造、設備など―に細やかな注意を払う必要があった。また、日光療法の科学的根拠を発見することができなかったがゆえに、正木は苦悩しながら日光による治療を実践していた。
著者
西川 純司
出版者
神戸松蔭女子学院大学学術研究委員会
雑誌
神戸松蔭女子学院大学研究紀要 = Journal of Kobe Shoin Women's University : JOKS (ISSN:2435290X)
巻号頁・発行日
no.1, pp.1-9, 2020-03-05

かつてミシェル・フーコーが「生命=史」(bio-histoire)と呼んだ、人類と医学的介入の関係の歴史を記述することは、現在においても重要な課題として残されている。本稿は、戦前日本のサナトリウム(結核療養所)で主に結核患者を対象に行われていた日光療法という医療実践の一端を明らかにするものである。とりわけ、正木不如丘(1887-1962)が行っていた医療実践を事例とすることで、近代日本の結核をめぐる「生命=史」の端緒を開く試みとしたい。 明治以降の近代化を社会的背景に、結核は人びとの生を脅かす伝染病として大正・昭和初期の社会で蔓延していた。そうしたなか、日光(紫外線)に結核菌を殺菌する作用があるということが発見されると、1920 年代半ばまでには日本においても日光の紫外線を利用するサナトリウムが見られるようになった。しかし、実地での治療は容易ではなかったことから、富士見高原療養所の正木は日光療法を行うための最適な条件―日光浴場の配置や構造、設備など―に細やかな注意を払う必要があった。また、日光療法の科学的根拠を発見することができなかったがゆえに、正木は苦悩しながら日光による治療を実践していた。
著者
西川 純司
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.53-66,127, 2014-02-28 (Released:2015-04-10)
参考文献数
27
被引用文献数
1

In the 1970s, many theories on the neighborhood protest movement reported negative effects from the development policy of the postwar period, and aimed to return to the value of life. They often criticized the Urban Planning Act of the prewar period and Hiroshi Ikeda, the Home Ministry bureaucrat who was its author, as the origin of development-oriented urban planning. However, we can find nowadays in the Anglo-Saxon world many govern mentality studies that are different from the conventional schema, “civil society / State (Capital)”.To understand better the characteristics of modern urban planning and its structure, we study Hiroshi Ikeda’s urban planning theory from the standpoint of govern mentality. Here we found that his theory was based on the practicalknowledge of trying to resolve hygiene issues in urban space, recognized asa social problem from the middle of Taisho period, by means of an adequate supply of sunlight. We show that he had great interest in the hygienic status of the residential environment, and considered promoting health by means of the regulation of the physical environment. In addition, we found that Ikeda’s urban planning focused on collective lives being objectified statistically, and that it had a structure which inevitably required aggressive intervention such as the restriction of individual freedom in order to reform sanitary conditions. These results indicate that the theories in the 70s on the neighborhood protest movement explain only one aspect of the problem of the city and its environment, and that therefore they overlook the problem concerning governmentality that mobilizes the resources to reduce the risk to society.