- 著者
-
西村 一之
- 出版者
- 日本女子大学
- 雑誌
- 若手研究(B)
- 巻号頁・発行日
- 2002
近年、人文社会科学の領域では、植民地研究の蓄積が進んでいる。しかし、それらの多くが生活世界とはある意味かけ離れた感があることを否めない。また、かつて日本が植民統治してきた朝鮮半島、台湾、南洋群島などをめぐる、植民地研究は未だ手薄である。本研究は、日本の植民地支配が50年間に亘った台湾をその対象とした。台湾社会では、現在その生活世界の様ざまな場面で、日本の植民統治と関連する事象、また台湾の人によってそれを言及される事象が、私たちの前に示される。本研究で現地調査の対象となった漁業領域においても、それは同様である。調査地である台湾東部における漁業は、日本人漁業移民の移住と公的機関による漁港の築港を伴う開発に由来する。日本人漁業移民は、移民村と呼ばれる場所に集住していた。1930年代後半より周辺地域に暮らす台湾の人びと(漢人/先住民アミ)が、日本人主体の漁業領域に参入する。このとき、日本人漁民との問で顔の見える関係性のなかでの技術移転が行われた。この技術移転は、1945年以降に実施された国民党政府による漁業振興策の中でも継続した。こうした1945年をはさんだ約10年間を経て、調査地は1980年代半ばまで東部地区を代表する近海漁業基地となった。植民統治期からこの地を代表してきたカジキ突棒漁は、船長を中心とした漁法だが、戦後活躍してきた彼らの多くが日本人漁民との漁撈を経験している。そして、彼らの持つ漁撈技術を始めとする「船長の力」は、漁撈の成功を目的としている。その力の起源をめぐっては、日本人漁民との漁撈経験が重要な位置を占めている。実際に彼が、日本人漁民とともに漁撈にあたったのは、若年の頃のごく短い期間でしかない。しかし、このときに習い覚えたと言及することは、彼らの社会内部に通用する「民俗知識」の中に、日本植民統治期の影響が取り込まれていることを示している。これをある種の翻訳過程の結果としてとらえることが出来る。以上を踏まえての研究成果の一部はすでに国際ワークショップの場や台湾の学術雑誌に投稿を通じて公表している。