著者
近藤 隼人
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.68, no.3, pp.1129-1134, 2020-03-25 (Released:2020-09-10)
参考文献数
9

PātañjalayogaśāstraにはYogasūtra 4.10に対する注釈として,縮小拡大する心の輪廻を主張する「他の者たち」(apare)の異説と,遍在する心の機能(vr̥tti)が縮小拡大すると主張する「学匠」(ācārya)説との対立が伝えられている.本稿においては,ヴァーチャスパティ・ミシュラ(10世紀)による注釈Tattvavaiśāradīにもとづき,この異説がサーンキヤ説に相当し,さらに「学匠」説がそのサーンキヤ説と対置されるヴィンディヤヴァーシン説に相当することを解明する.この異説をサーンキヤ説に帰する論拠としては,(1)イーシュヴァラクリシュナ著Sāṃkhyakārikāに登場する喩例や用語法との対応,そして(2)細長いシャシュクリー(dīrghaśaṣkulī)に対する言及という二点が挙げられる.まず(1)に関して,「他の者たち」に論難を加える論敵は心が輪廻の際の基体となることを示すために杭や画布を喩例として挙げるが,これはSāṃkhyakārikā 41の喩例に対応するものであり,さらに微細身を「恒常的」(niyata)とする記述もSāṃkhyakārikā 39に対応する用語法である.次に,(2)細長いシャシュクリーは心と身体が同じ大きさであることを示すための実例として言及されるが,これは一度嚙めば五官が同時に働く例として度々言及される菓子を指す.NyāyamañjarīやVyomavatīはこれを五官の同時認識と関連付けつつ,いずれも同説をカピラに帰しており,サーンキヤとの関係性を窺わしめる.さらに,ヴァーチャスパティ自身がNyāyavārttikatāt­paryaṭīkāにおいて同説をサーンキヤ説とみなしている点も,本異説をサーンキヤに帰す根拠として十分である.そして,この異説に対して学匠説では「機能」(vr̥tti)の縮小拡大が説かれるが,“vr̥tti”という概念はサーンキヤ知覚論において感官の対象への到達を想定するために主張されたものである.とりわけ感官の遍在を主張し,対象への到達を想定しないヴィンディヤヴァーシンにとっては,対象において開顕する“vr̥tti”の想定によって学説の整合性が確保されるほど,この“vr̥tti”は枢要な概念であった.さらに,微細身の存在を否定し,“vr̥tti”の有無を生死と結びつけるTattva­vaiśāradīの記述がYuktidīpikāにみられるヴィンディヤヴァーシン説と符合している点も考慮すると,「学匠」はヴィンディヤヴァーシンを指すものと考えられる.以上の点は,通常のサーンキヤ説とヴィンディヤヴァーシン説との懸隔を示しているばかりか,夙に指摘されるPātañjalayogaśāstraと「学匠」ヴィンディヤヴァーシンとの親和性を確証させる一証左たりうる.
著者
近藤 隼人
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.815-811, 2013-03-20
著者
近藤 隼人
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本年度は、イーシュヴァラクリシュナ(4-5c)著『サーンキヤ頒』(Samkhyakarika,SK)に対する注釈書『論理の灯火』(Yuktidipika,YD)(ca.680-720)における認識論解明の総仕上げとして、正しい認識手段(pramana)の一つ<信頼できることば>(aptavacana)に焦点を当てた。この<信頼できることば>はSK第5偈にて"aptasruti"と換言されるが、YDはその"aptasruti"に対して三種の複合語解釈を示す。第一は、人為でないヴェーダを<信頼できることば>に含める解釈、第二は、ヴェーダ以外の人間の手に成る聖典や教養文化人(sista)など世間的な人物の言明を含める解釈、第三は、一語残留規則(ekasesa)を用いて上記二解釈を折衷する解釈をとっていた。SK第2偈で示されるように、サーンキヤはバラモン正統哲学の一派としては例外的にヴェーダ供儀に対して懐疑的な姿勢を示しているが,YDはそのような純粋な意味では正統派とは呼びがたいサーンキヤの伝統から踵を返し、<信頼できることば>に対してSKが与える定義的特質はヴェーダも含意しうることを理論的に示すことによって他の正統哲学諸派との折り合いをつけようとしたことが、この複合語解釈から窺知される。その姿勢を裏付けるためにも、YDがaptaをいかに位置づけているのかを検討した。この問題はヴェーダの非人為性,すなわちaptaは「信頼できる」という形容詞として解釈すべきか、「信頼できる人」として解釈すべきか、という議論とも密接に関連する。形容詞の場合には上記第一解釈、「人」の場合には上記第二解釈に相当する。YDにおけるaptaおよびaptavacanaの位置づけをすべて検討した結果、YDにおける本来的なaptaの用法としては、「信頼できる人」、とりわけ世間的に信頼できる人物を念頭におき、日常生活を営む上での試金石ともいうべき位置づけを与えていたものと結論づけた。本研究のこの成果は、仏教思想学会(於東洋大学)、日本印度学仏教学会(於龍谷大学)、インド思想史学会(於京都大学)にて口頭発表し、論文としても発表した。