著者
金 志善
出版者
こども教育宝仙大学
雑誌
こども教育宝仙大学紀要 = Bulletin of Hosen College of Childhood Education
巻号頁・発行日
vol.2, pp.27-44, 2011-03-16

本論文は、植民地朝鮮における中等音楽教育に注目し、中等教育機関における音楽教育と、教育実践において大きな役割を果たす音楽教員らを中心に調べ、中等音楽教育の実態を明らかにしたものである。植民地朝鮮における中等教育と中等音楽教育を概観し、朝鮮で活動を行った多くの日本人中等音楽教員について『日本近代音楽年鑑(以下、年鑑)』と『東京音楽学校一覧(以下、一覧)』の両資料を用い、データの整理・分析を行った。また、中等音楽教員であった小出雷吉、大場勇之助、平間文壽について彼らの履歴事例を調べ、確認した。植民地朝鮮において中等教員の養成機関は存在せず、中等教育における多くの教員は、日本人で占められていた。それは、中等音楽教育においても同様であった。朝鮮で活動を行った日本人音楽家について『年鑑』を調べた結果、朝鮮での主な活動は中等音楽教員であり、彼らの出身学校のほとんどが東京音楽学校で、専攻は本科、甲種師範科であったことが分かった。それは、『年鑑』に掲載される人物がある程度の社会的な地位を持っている音楽家であるためであった。一方、『一覧』による朝鮮で活動を行った卒業生の専攻を見ると、乙種師範科などが含まれ専攻はもれなく分布されていた。両資料の分析結果をみると、朝鮮での活動は、音楽教員であり、そのほとんどの学校が官公立であった。しかも、その多くの学校は、在朝鮮日本人学校であり、中等学校においては女学校に集中して努めたことが分かった。それは、男子校より女子高の方が音楽教授を多く配分されており、同じ女子校である女子高等普通学校より1930年現在4倍も多いことから、高等女学校における音楽教員の数も必要に応じた形で構成されたと思われる。教員の事例について小出雷吉、大場勇之助、平間文壽の3人の事例を確認した結果、彼らは、東京音楽学校を卒業し、日本で教員や音楽活動を行い、その後、それぞれ朝鮮に渡った。彼らの朝鮮においての活動の中心は、教員活動であり、複数の学校で音楽教員として活動を行った。これは、朝鮮における中等音楽教員養成機関がなかったため、彼らの受容は不可欠であったことを意味する。しかも、彼らは、教員活動以外にも作曲活動や演奏活動、音楽協会での旺盛な活動を兼ねて行ったことが分かった