- 著者
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長﨑 健吾
- 出版者
- 公益財団法人 史学会
- 雑誌
- 史学雑誌 (ISSN:00182478)
- 巻号頁・発行日
- vol.128, no.9, pp.1-38, 2019 (Released:2021-09-02)
本論文では天正4(1576)年に法華宗(日蓮宗)教団が京都で実施した勧進に関する史料を分析し、戦国期の都市民における永続的な「家」(イエ)および都市民の社会的結合について考察する。第一章では勧進史料における家の位置付けを「家数」記載や信徒数の集計方法に注目して分析する。法華宗教団は家単位で信徒を把握しようとしていた。信徒の大半は教団側の志向に従って当主名義で家として出資を取りまとめたが、当主以外の家構成員や他宗の檀家に包摂された女性信徒などが個人として出資をする場合もあった。先行研究はこれらの点に留意していなかったため、家について適切に考察することができなかった。
第二章では狩野・後藤・本阿弥・五十嵐等の有力信徒の一族を取り上げ、家と一族の関係について考察する。当該期には婚姻の際に女性が帰依する僧坊を夫に合わせるか否かを選択しており、菩提所を異にする家同士の婚姻によって家や一族内部で帰依する僧坊が複数あるという事態が生じた。続いて上京小川地域における都市民結合について考察した。同地域は武具の製造・販売など武家政権周辺の需要を満たす工房街としての性格を有しており、住民の多くは職縁によってゆるやかに結びついていた。地域内における住民の移動と近隣での婚姻が繰り返された結果、小川地域においては職縁が住民の地域的なまとまりに転化していった。
第三章では西陣地域における都市民結合の特質について織物業者である大舎人座を取り上げて考察する。座衆や染色業者、染色に用いる紺灰の流通を掌握する商人のあいだには法華宗信仰が浸透し、既存の職縁を基に二次的な結合を創り出す媒介として機能していた。大舎人座衆は大宮今出川の辻を中心とする西陣地域内で最も有力な町々に居住しており、座衆自身も有力住民を構成していた。座衆は応仁の乱後にこれらの町々に定着し、西陣地域における地縁的共同体形成の核となった。