著者
馬場 宏二
出版者
大東文化大学
雑誌
経済論集 (ISSN:02874237)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.79-87, 2003-04-30

まことに偶然のきっかけから見付けた。経済学者で「経済成長」という語を初めて使ったのは、ヨーゼフ・シュムペーターである。その『経済発展の理論』の初版に、「経済成長」 Wachstum der Wirtschaft という文字が出てくる。それが「経済成長」なる語の初出のようである。もっとも、これがすぐ、今日の「経済成長」の流行に繋がったわけではないし、意味上も今日の用法と全く同義とは解しきれないないところがある。しかし、多くの論者が「経済成長」の創案者だろうと漠然と予期しているアルフレッド・マーシャルは、「企業成長」とは述べたものの、「経済成長」という語は終に使わなかった。しかるべき経済学者で「経済成長」と述べたのは、どうやらシュムペーターが最初らしいのである。
著者
馬場 宏二
出版者
大東文化大学
雑誌
Research papers
巻号頁・発行日
vol.31, pp.1-32, 1999-12

事態を発見しながら叙述を進めて来たので、文脈が多少混雑していると思う。繰り返しになるが、大筋を箇条書きにまとめておく。1. 漢籍古典に「社会」という文字は古くからあるが、「会社」という文字はなかった。「会社」は江戸時代の日本で創案された新語であった。2. 19世紀に入って、鎖国日本が世界情勢を知る必要が生じた時、蘭学者が地理書を翻訳し、その中で、西欧の社会制度の訳語の一つとして「会社」が創案された。最初の創案者を特定することは出来ないが、杉田玄瑞『地学正宋』がおそらく最初の使用例である。19世紀後半の蘭学者たちは、この語を共有していたものと思われる。3. 「会社」はもともと学界、学芸集団の意味であり、やや拡げて特定階層の自発的集団の意味、あるいは今日の「社会」に重なる意味で使われた場合もあるが、営利企業の意味に使われたことは原則としてなかった。その例外は、オランダ東インド会社の類の特権会社を「会社」と呼んだ場合である。4. これは「会社」の原語がオランダ語の Genootschap (団体、協会) か Maatschapppij (社会、協会・学会・団体、会社) だったことに由来する。江戸時代の辞書では、前者を学会、後者を組合と訳している。オランダ語の Compagnie には、「中隊」と東インド会社を指す「会社」の意味しかなく、これは江戸時代の辞書でも同様だったから、訳書の中ではこれが例外的「会社」になった。中隊に相当する訳語はなかった。5. 幕末開港後は、会所貿易が不利になり、商人集団を形成してそれに貿易を担当させる必要が出てきた。幕府の実務官僚がその集団を「商社」と呼んだが、これは英語の Company の訳語であり、そのなかでも特に共同出資の営利企業を指していた。6. 「商社」の創案者は、小栗上野介忠順と目されているが、これは資料的には確定できない。この語は、幕末には公用語として流布した。7. 明治期に入ると、Company の訳語は「会社」に置き換えられた。「会社」はこの時新たに造語されたのではなく、「商社」の語義をヨリ古い別義の単語に置き換えたのである。この切り替えには意図的な推進があったことが推測されるが、推進者がいたとすれば最初でなくても最有力なのは渋沢栄一である。8. 福沢諭吉は、「商人会社」を説いたことで、穂積陳重から、営利企業の意味の「会社」の創案者と目されたが、福沢は単語としての「会社」の創案者ではない。また、「会社」の語義を営利企業に定着させたわけでもない。福沢は訪欧で「商社」の概念を掴んだ後、それを商人の会社と言い換えた見せた。この際の「会社」は蘭学者達が使っていた「会社」である。「商人の会社」は、おそらく『ズーフ・ハルマ』が無意識の下敷きになって出来たのであろうが、商人の集団組織だから、当然に営利企業になる。9. こうして福沢は、蘭学者達の非営利的な「会社」と、幕末の「商社」を換骨脱胎した、明治以降の営利的「会社」とを、無意識に媒介する位置を占めていたことになる。
著者
馬場 宏二
出版者
大東文化大学
雑誌
経営論集 (ISSN:13462059)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.9-18, 2007-09

1 0 0 0 IR 富概念の推移

著者
馬場 宏二
出版者
大東文化大学
雑誌
経済研究研究報告 (ISSN:09164987)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.91-109, 2007-03

経済学における富の概念が、重商主義学説から古典派経済学に至るにつれて、貨幣素材としての貴金属から各種使用価値の堆積へと移ってゆく過程を追う。むろんさほど斬新な試みではない。しかも、富概念の発展と唱えたくとも本質的には変遷であり、学説の系譜と控えようとしても継承関係を明示できない場合が多い。作業としては、諸説の時間的順序に従った羅列だと自称するしかない。それでもこれは、ペティからスミスやリカードに至る古典派経済学形成過程、未だに明確な図式化をできない過程の一側面である。そして、富概念と価値概念がいわば表裏の関係にあるところから、古典派における価値論成立史を、裏面から照射する手がかりにもなる。その程度の意味は持つであろう。