著者
高 啓豪
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.35-47, 2013

個人の身体は、他者とのつながりによって初めて社会性を持つ。これを体現した言葉のひとつに「貞操」があると思われる。この言葉は、極めて私的な領域のものでありながら、公での評価によって初めて意義を持つという、両極端の意義を具有している。本発表では、明治時代の上野で起きた戊辰戦争と内国博覧会を背景に描いた芥川龍之介の「お富の貞操」を貞操のテクストとして取り上げ、語り手・芥川龍之介が駆使した貞操のレトリックを再考し、読み解いていきたい。物語の場所は明治元年と明治二十三年の上野というトポスである。同一の場所ながらも、そこに付与される意味合い・ニュアンスが時代推移によって変わる特徴的な作品として、近代化が表象され可視化されるのである。そこから戊辰戦争という戦時中における非戦闘員である女性に加えられるレイプという形の暴力問題、婦人貞操問題、ひいては日本の近代化などの問題を、身体論の視点から考える。物語のタイトル「お富の貞操」に鑑みて、作品の主人公がお富であることはたやすく思いつく。本作は、お富の持ち前のおおらかな性格が、家庭を幸福へと導く物語であることとの読み解き方が多かった。しかし、語り手芥川が、本作品を第三人称で描いているため、物語においてもう一人の登場人物新公にも同様の重みが置かれていることは見過ごされがちである。新公の立身出世が語られる結末があるからこそ、そこには描かれていないテクストとして、新公の改心談が対等的に存在すると思われる。そこで、本作品と芥川が題材を得たとみられるストリンドベリィの「令嬢ジュリー」(一八八八年)との比較を皮切りに、登場人物の男女の位相、男性の持つ上昇志向などを併せて論じたい。また、近代化では個人の自覚が要請されるが、結局のところ、本作での「近代化」は明治政府による国家の傘下に厳重に管理され、内国博覧会という形で収束されるメタファーとして描かれていると思われる。本発表は、一九二〇年代に発表された「お富の貞操」という作品を取り巻く言説の中から、近代化の中で貞操という概念は如何に確立され、国家の中においてどう機能しているかを考察する。「貞操」は女性のためにあるものか、男性のために作られた制度か。これは、身体・セクシュアリティのアプローチを通して考えると興味深いものである。