著者
松本 賢一 諫早 勇一 山本 雅昭 高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

研究代表者を含め4人の共同研究者は、それぞれ1.ワイマール共和国時代のドストエフスキイ流行について、2.ベルリンにおける亡命ロシア人の活動と文学作品のかかわり、3.ワイマール時代のドイツにおけるユダヤ人問題について、4.映画製作の手法における独露の影響関係について、といったテーマを設定し、概ね次のような知見に達した。1.ワイマール時代のドストエフスキイ流行は、既にロシア第一次革命の直後に種子が蒔かれており、その仲立ちを務めたのがメレジュコフスキイとメラー-ファン-デン-ブルックであった。後者はドストエフスキイの過激な民族主義とナチズムをつなぐ役目を果たしてもいる。2.亡命ロシア人、ことにウラジーミル・ナボコフにとってベルリンは、サンクトペテルブルグを髣髴とさせる安住の地であったが、作品執筆に当たり、彼はロシア語版と英語版でベルリンを想起させる描写に相違を持たせ、作品に一層の普遍性を与えようとした。3.)ワイマール時代とは、ユダヤ人にとって「同化」を目指す変貌の極点であったが、同時に反ユダヤ主義とシオニズムが一層激しさを増した時代でもあった。そのような中に身をおいたユダヤ人が自らのアイデンティティーの基盤としたのが虚構の精神的共同体としてのJudentumであった。4.ワイマール期から第二次大戦に至る時期のドイツ映画に特徴的なディテールを分析していくとひとつの方向性を見出すことができる。それは、単に時代精神や社会的動向によってのみ説明される方向性ではなく、「バロック的アレゴリー劇」とでも名付け得る流れであり、その影響力は近年の映画製作にも及んでいる。
著者
高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.43-68, 2011-08

論文(Article)ナボコフの小説『絶望』の主人公の私=他者の二重性は、無数の仮面による偽装を促す「死の欲動」の下で、たえず新たな役を演じながらコピーとしてスクリーン上に遍在する「映画俳優」的主体である。一方、ファスビンダーはこの映画化にあたって、撮影時の70年代ドイツ社会を、画一化された人間が増殖するファシズム時代に重ね合わせ、絶望の光のうちに残されるヘルマンの狂気に、均質化を免れる差異に基づく分身の可能性を見ていた。Das Doppelwesen Hermanns im Despair von Nabokov steht unter der Wirkung des Todestriebs und konstituiert sich als maskenhaftes Wesen, das sich immer wieder verstellt wie „Filmschauspieler", der als Kopie auf Leinwänden anwesend ist. Fassbinder hat bei der Verfilmung von Despair mit der Zeit des Nazismus auf die politische Situation Deutschlands in 70er Jahren angespielt. Hermann bleibt im Licht der Verzweiflung, aber damit entkommt er auch dem Einebnungsprozeß des Faschismus. Er bleibt immer auf der Suche nach dem Doppelgänger, der nicht auf „sameness", sondern auf Differenz beruht.
著者
高木 繁光 諫早 勇一 松本 賢一 メーリニコワ イリーナ 銭 〓 大平 陽一 宮崎 克裕
出版者
同志社大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

本研究は、文学作品ではナボコフの小説『絶望』、ドストエフスキイの小説『おかしな男の夢』、マラルメの『イジチュール』、中国の『紅楼夢』を、映像関係ではアレクセイ・ゲルマンなど50年代のソ連社会を舞台とした近年のロシア映画、エイゼンシュテインの映画理論、30年代から50年代のドイツ映画と親近性をもつ近いマキノ雅弘作品などを主たる分析対象として、各研究者がそれぞれの分野で、「二重世界」、「二重文化性」、「二重の知覚」といった二重性を生きる分身的主体のあり方について考察したものである。ここで分身的主体とは、ジギルとハイドのような<病的>現象としてではなく、あれでもありこれでもあるという複数的存在様態を肯定してゆく創造的エネルギーを備えたものとして捉えられている。あれかこれかという単一的世界像の見直しを促すこのような分身テーマは、複製技術時代における文学と思想と映像の相互関係を理解する上できわめて有効な手掛かりとなりうるものである。
著者
高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.8, no.2, pp.355-379, 2005-12

本論はドイツの二つの零年に撮られたベルリンについての三つの映画の分析を通して映画的イメージの特性を考察する。『ドイツ零年』においてロッセリーニは、廃墟のベルリンを地獄絵図として描く。そこに属することを拒む少年は繰り返し螺旋階段を上り、ついには死へと身を投じる。この反復的な垂直方向の運動とともに、スクリーン上を幾度も横切る路面電車の水平方向の運動が、映画の構図上の基本線をなしている。ターナーの『ベルリン特急』は様々な数字の反復によって構成され、特に2はこの映画の主題である分身性、類似したものの反復を示している。車窓はスクリーンとしてメタ映画的な機能を果たし、そこにフランクフルトとベルリンという二つの街が破壊され瓦礫となり似通った風景として反復的に映し出される時、それらは都市としての固有性、一回性を失い、幽霊のような類似した二つのイメージとなって重なり合う。それは、一回限りのものから固有性を奪い、複製、コピーという反復的イメージを作り出す映画の本質に対応している。『新ドイツ零年』も相似、分身を表す2の反復によって構成されている。この映画は、「存在と非在」、歴史と精神の間を「揺れながら」、幽霊的な主体の複数性において回帰と逃走を繰り返す歴史という女性(たち)の「物語」である。ゴダールは、この超時間的な「物語」をとおして、第二の「零年」という一回的な時間を「闇の音楽」として聴かせようとする。Die Abhandlung fragt anhand einer Analyse von drei Filmen über Berlin nach dem gespensterhaften Wesen der filmischen Bilder. In Germania Zero zeichnet Rossellini die zerbomte Stadt Berlin als eine Hölle, die einen Knaben zum Selbstmord treibt. Er geht wiederholt die Spiraltreppen hinauf, die ihn zuletzt zum Tod führen. Mit diesen vertikalen Bewegungen bestimmen die horizontalen Bewegungen der Straßenbahnen die Grundkomposition des Films.Im Berlin Express Tourneurs werden auf das Fenster des Zugs, das als Leinwand funktioniert und metafilmisch das Wesen des Films enthüllt, die Anblicke der zerstörten Städte Frankfurt und Berlin projiziert. Die beiden Stadtbilder sind durch die Zerstörung ähnlich geworden: sie haben ihre Eigenartigkeit als Stadt verloren und ähneln sich wie gespensterhafte Doppelgänger. Allemagne année 90 neuf zero ist durch die Wiederholung der Zahl 2 gekennzeichnet, die auf Ähnlichkeit und Doppelgänger hindeutet. Hier ist von „jeunes filles sans uniforme" die Rede, die als gespensterhafte plurale Erscheinungsform der Geschichte selbst zwischen Sein und Nichtsein, Geschichte und Geist oszillierend immer auf die Welt wiederkehren und wieder erneut verschwinden.
著者
高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.105-121, 1998-07
著者
高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.71-95, 2006-08

本論で扱う叙事演劇的映画は、大友良英が言う「周辺聴取的」音の効果を最大限用いることで、ストーリーが展開するフレーム外に広がる状況全体を提示しようとする。ベンヤミンのバロック演劇と同様、「根本的にレーゼドラマ」として読解される叙事演劇において、「文字的性格」をもつアレゴリーとして捉えられる事物は、異化効果によって自明の文脈から引き剥がされ、驚きとともに発見されるべきものとなる。この異化効果に不可欠な「複合的視線」は、映画において俳優の視線とカメラの視線の二重性として現れるが、パゾリーニによれば、それは、カメラが物語を擬態しつつ、「細部についての、なかんずく、本筋とはあまり関係ないような部分についての異様なまでの固執」を示すことで、その存在を露呈し、それによって映画それ自体を乗り越え、「詩の映画」を出現させることとしてある。つまり、パゾリーニにとって映画は、「もうひとつ別の映画をつくりだすことへの誘い」、映画自体の内部における映画の差異化にほかならない。ゴダールは、このような映画を差異化する「シネマトグラフの力」を、何よりも聴覚的なものに求め、非在の映画と、それを聴取する耳を提示する映画との相関関係として提示する。そこで異化される「周辺聴取的」もの音を、われわれは、はじめて耳にするかのような驚きとともに発見することになるのである。Die sozusagen epischen Filme benutzen die „peripher-akustischen" Elemente des von Yoshihide Otomo behaupteten „nicht-kognitiven Hörens", um den Zuschauer die Zustände entdecken zu lassen. Auch das brecht'sche „komplexe Sehen", das im Kino seine Entsprechung in der Doppelheit vom Blick des Darstellers und der Kamera findet, ermöglicht dem Zuschauer, die Dinge aus ihrem selbstverständlichen Kontext herauszureißen und sie als ein „Geheimnis" entdecken zu lassen. Dabei gibt, nach Pasolini, die Kamera einerseits vom simulierten Standpunkt des Darstellers die Handlung wieder, aber gleichzeitig verrät sie „durch die exzentrische Obsession zu den Einzelheiten", ihre Existenz und lässt „das Kino der Poesie" entstehen. Kino wird so „ein Anlaß zu einem anderen Kino", das sich innerhalb des Kinos differenziert. Bei Godard findet sich eine solche Differenzierung des Kinos in Korrelation zwischen einem vor allem akustisch bestimmten Kino des Nicht-Seins und einem Kino, das bereit ist, seine Aufmerksamkeit auf die leisesten „peripher-akustischen" Töne zu richten. Mit Staunen entdeckt man diese Töne, durch die sich das Kino verfremdet.