著者
高本 條治
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.123-136, 1995-09

ウナギ料理を注文する際に使われるとされる「ばくはウナギだ。」という文(いわゆる「ウナギ文」)は,多くの日本語文法研究者の関心を集めてきた。ウナギ文に関する記述や説明は,当初は統語論の領域で繰り広げられ,その後,語用論の領域へと徐々に移行してきている。このウナギ文の文法化の問題について,語用論的な観点から継続的に論述していきたいと考えるが,本稿では,どのような観点からウナギ文を考察するかを明らかにし,「ばくはウナギだ」という文に対して,先行研究がどのようなパラフレーズを行っているかを振り返る。
著者
高本 條治
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.189-216, 2001

太宰治の有名な小説作品『斜陽』には「トロイカ」という名が記された「文庫本」が登場する。『斜陽』は,太田静子の『斜陽日記』に依拠して書かれたものとされるが,『斜陽日記』の該当個所にもやはり「トロイカ」という「小さい本」が出てくる。しかし,「トロイカ」というタイトルをもつ文庫本の存在を確認することはできなかった。もしそうした本が実際には存在しないなら,読者は文脈に応じてその本に関する想定を創造的に構成しなくてはならないことになる。小論では,「トロイカ」は,チェーホフの戯曲作品『三人姉妹』を示す符牒ではないかという解釈を提示する。また,そう解釈した場合に,どのような効果が文脈上達成されうるのかを具体的に考察し,「トロイカ」を『三人姉妹』の符牒であると見る解釈が十分に可能であるということを語用論の観点から述べる。In Osamu Dazai's most famous novelette Shayo, we find the description of a paperback labeled Troika. It is well known that Dazai wrote this novelette on the model of Shizuko Ota's Shyo Nikki. Also in its corresponding passage, we can find almost the same description of a small book labeled Troika. However, it has been unsuccessful to identify the actual entity of the paperback-type book titled Troika. If there are not such a book, every reader has to creatively construct some assumptions for the book according to her contextualization. In this paper, I bring up one interpretative possibility that Troika could be the secret code for Chekhov's drama Tri Sestroy (The Three Sisters). I argue how contextual effects can be achieved under this way of interpretation, and claim from the viewpoint of linguistic pragmatics that my interpretation regarding Troika as the code for Tri Sestroy must be convincing enough.
著者
高本 條治 Joji Takamoto
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.123-136, 1995-09

ウナギ料理を注文する際に使われるとされる「ばくはウナギだ。」という文(いわゆる「ウナギ文」)は,多くの日本語文法研究者の関心を集めてきた。ウナギ文に関する記述や説明は,当初は統語論の領域で繰り広げられ,その後,語用論の領域へと徐々に移行してきている。このウナギ文の文法化の問題について,語用論的な観点から継続的に論述していきたいと考えるが,本稿では,どのような観点からウナギ文を考察するかを明らかにし,「ばくはウナギだ」という文に対して,先行研究がどのようなパラフレーズを行っているかを振り返る。
著者
高本 條治 Joji Takamoto
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.15, no.2, pp.405-419, 1996-03

ウナギ料理を注文する際に使われるとされる「ばくはウナギだ。」という文(いわゆる「ウナギ文」)について,前稿(高本1995b)を承けて論述する。本稿では,まず,前稿に引き続き,先行研究がどのようなパラフレーズを行っているかをまとめ,それを分類整理する。次に,「ウナギ文」発話の解釈のポイントが,デフォルト解釈がキャンセルされることによって引き起こされる推論にあるという主張を行い,「ウナギ文」発話の解釈記録形式との関連を論じる。最後に,「ウナギ文」の先行研究に「過剰な文法化」が見られることを指摘する。
著者
高本 條治
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.16, no.2, pp.467-483, 1997

川端康成「伊豆の踊子」の中に,表現として顕現していない主格動作主の解釈が曖昧な文がある。この解釈事例には,結束性と一貫性の双方が関わっている。小論では,結束性・一貫性という言語学用語について確認的な概観をした上で,関連性理論の枠組みに基づいてこの事例の分析を行う。分析にあたっては,川端自身がその文の解釈について書き残しているエッセイを利用する。分析を通じて,結束性解釈が語彙統語構造から受ける強い制約,結束性解釈と一貫性解釈との連携性,結束性解釈と一貫性解釈の衝突などの問題を議論する。In Izu no Odoriko (The Izu Dancer) written by Yasunari Kawabata, there is a sentence whose covert subject is interpretively ambiguous. This interesting case of interpretation involves several pragmatic problems related with both 'cohesion' and 'coherence'. In this paper, first, I gave an overview in terms of the distinction between 'cohesion' and 'coherence', as well as the definitions of each two terms. After that, using the essay work in which Yasunari Kawabata himself wrote about his own intended interpretation, I look at these problems from the viewpoint as follows : (i) how cohesion and coherence restrict each other, (ii) how cohesion and coherence cooperate with each other, and (iii) how cohesion and coherence conflict with each other.
著者
高本 條治
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.307-323, 1995

副題に示した川端茅舎の俳句について,(a)「カワセミは飛翔している」,(b)「カワセミは静止している」という2つの解釈が行われている。また,(a)と(b)を併用する解釈も見られる。本稿では,Sperber&Wilson(1986a)の関連性理論の枠組みで,この句の解釈になぜ不確定性が生じるのかを,次の点から語用論的に分析し,考察を加える。(1)この句についての従来の句評には,どのような解釈上の問題点が内包されているか。(2)「こんこんと」という副詞によって,どのような曖昧性がもたらされているのか。(3)「翡翠」への指示対象付与の問題と,この句の解釈とはどのように連関しているのか。(4)一見相反するように見える2つの解釈が多重に併存できる理由は何か。Some critics have pointed out that this haiku has at least two possible readings as follows: (a) this kingfisher is flying in the air. (b) this kingfisher is settling on a bough or a stake. But, why does this ambiguity occur? Can we determine which reading is more suitable or sufficient for this haiku? To answer these questions, using the framework of 'Relevance Theory'(Sperber and Wilson 1986a), I analyze this haiku text and describe following issues from the viewpoint of linguistic pragmatics. (1) the interpretive indeterminacy in which the critics have been involved. (2) the interpretive ambiguity which the adverb 'konkonto' may bring in. (3) the interpretive effects of the reference assignment for the noun 'kawasemi'. (4) the interpretive interaction between two inconsistent readings as mentioned above.