著者
髙橋 紀穂
出版者
学校法人 天満学園 太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.111-120, 2017 (Released:2017-04-20)
参考文献数
28

本稿の目的はバタイユ理論における「自然」の意味を把握することにある。議論は次のようになされる。最初に,バタイユが自身の議論の基底に「自然」を置いていること,また,その「自然」の意味づけが変化しているという観点を示す(第1節)。次に,1927年頃に書かれたと思われる最初期のエッセイ「太陽肛門」において描き出されている「自然」を明らかにする(第2節)。続いて,雑誌「ドキュマン」においてバタイユが発表した論考から彼の「自然」概念の変化を考える(第3節)。次に,「社会批評」に1932年に発表された論文「ヘーゲル弁証法への基底への批判」における「自然」概念の展開を見る(第4節)。われわれはこれらの探求によりバタイユの考える「自然」が詩的・文学的なイメージを超え,ひとつの政治哲学的思想を支える基礎にまで展開されていることを示す。最後に,これらの探求を踏まえた上での今後必要となる研究に触れる(第5節)。
著者
髙橋 紀穂
出版者
学校法人 天満学園 太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.209-218, 2010 (Released:2017-05-10)

本稿の目的はバタイユの「至高性」の「瞬間」の概念をデリダのフッサール批判から考察することにある。議論は以下の手順でなされる。まず、「1」において、バタイユの「至高性」の概念を明確にするために、デリダのフッサール批判を考慮する必要の確認。「2」において、フッサールの「今」概念、および、それに対するデリダの批判を素描。とりわけ「今」には「差延」からなる記号作用があるゆえ「今」は決して捉えられない、というデリダの批判を確認。「3」において、われわれの世界には記号作用には含まれないものがあることを考察。「4」において、「差延」のさまざまな性質を把握。続いて、上記の性質とバタイユの「至高性」の「瞬間」を比較し「至高性」が記号作用では捉えられないものであることを考察。こうして、フッサール、デリダが議論の対象とした「今」と「至高性」の「瞬間」の概念を結びつける。そして「5」において、「今」と「至高性」の「瞬間」の概念的つながりをより考究するための今後の課題を検討する。

1 0 0 0 OA 労働と言語

著者
髙橋 紀穂
出版者
学校法人 天満学園 太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.167-175, 2014 (Released:2017-05-10)

本稿の目的は,意識のエネルギーと生産的労働によってもたらされるエネルギーを同一の地平で考えるジョルジュ・バタイユの思考を明確化することにある。議論は以下の手続きによって進められる。まず,バタイユの労働概念を,次に,彼の労働と言語との関係の思考を見る。続いて,彼が,ヘーゲル哲学の分析の中で,労働と言語的意識の両者を,エネルギー論というひとつの視点から捉えたことを示す。その後,その正当性をデリダの言語論から考える。そして,彼が思考した消費の倫理を示す。最後は,バタイユが現代のわれわれにもとめた「自覚」について考える。
著者
髙橋 紀穂
出版者
学校法人 天満学園 太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.189-198, 2012 (Released:2017-05-10)

本稿の目的は、ジョルジュ・バタイユの普遍経済学における、意識の問題を整理することにある。議論は以下の手続きで行われる。第2節においては、『呪われた部分』における普遍経済学の概略を説明する。第3節においては、おもに『宗教の理論』から意識の問題を論じる。第4節においては、物理的局面と意識的局面における消尽の様相を論じる。第5節においてはこれまで述べてきた普遍経済学の観点から、奢侈としてある意識を明確に捉えなおす。これらの論を通して普遍経済学的視点から見たとき、意識が、奢侈性、物理的生産性への寄与、物理的破壊性への寄与、意識そのもの、および人間の個体性の生産および破壊、という性質をもつことを明確にする。最後の第6節「おわりに」においては、これまでの議論を整理するとともに今後の課題が提起される。

1 0 0 0 OA 禁止と意味

著者
髙橋 紀穂
出版者
学校法人 天満学園 太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.169-178, 2013 (Released:2017-05-10)

本稿の目的はジョルジュ・バタイユの議論における禁止と意味の世界の関係を明らかにすることにある。各節で考察されるのは以下のとおりである。第1節では本稿の目的の確認を行う。第2節では,死,労働,自己意識と禁止の成立を考察する。第3節は原初の禁止としての自死の禁止について考察する。第4節では,自死の禁止の上に積み上げられる諸々の禁止について考察する。第5節では,人間と自然との分割線としての自死の禁止,この分割線の無意味性,およびその意味生成契機の役割,さらにその無意味性の隠蔽のための諸々の禁止について論じる。第6節では,語りえない無意味の体験としての至高性の体験,そしてそれについての記述の失敗の必然性について論じる。第7節「おわりに」では,この失敗による無意味の領域の照射,この領域を基礎に人間の文化と歴史を考察した場合の至高性と俗なる世界の無意味性,そして最後にこの無意味性の自覚の重要性について論じる。
著者
髙橋 紀穂
出版者
学校法人 天満学園 太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.187-195, 2015

本稿の目的は,ジョルジュ・バタイユが思考するコミュニケーションと道徳を明確化することにある。最初に,1940年代にバタイユが思考した内的体験を素描する。次に,バタイユの思考する内的体験においては他者とのコミュニケーションが主張されているにもかかわらず,それを可能にする「超道徳」が死へ向かわせるものであることを指摘する。続いて,生と死のあいだの引き裂きの中での贈与こそがコミュニケーションと共同性を可能にすること,および,このような所作を求める道徳こそがバタイユのコミュニケーション的道徳であることを導き出す。そして,最後にこれらの議論の小括を行う。