著者
髙鳥 廉
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.9, pp.41-67, 2021 (Released:2022-09-20)

足利将軍家の子弟や室町殿の猶子が門跡寺院に入室する目的としては、しばしば門跡寺院支配や統制が先行研究によって挙げられている。室町殿と血縁関係ないし擬制的親子関係を有する僧が門跡寺院へ入室するのだから、彼らの入室により室町殿の寺院に対する影響力が強まっていったであろうことは想像に難くない。 ただし、これまでの研究では、肝腎であるはずの入室の契機に関する検討を欠いたまま室町殿の主体性を自明視してきたため、室町殿と公家・寺院との関係性や、寺院に対して室町殿の影響力が強まっていく背景が適切に捉えられていない。とりわけ、門跡寺院の附弟選定が各権門間における合意形成の場であったにもかかわらず、それまで寺院に子弟を送り込んできた天皇家や公家、あるいはその受け皿となった寺院側の動向が検討の対象とされてこなかった点は研究史上の不備であり、入室の多様な意義を曇らせてしまっている。 そこで本稿では、将軍家子弟や室町殿猶子の門跡寺院入室の契機を検討し、「貴種」の入室がいかなる社会的意義をもったのかについて論じた。その結果として、将軍家子弟が皇族を中心とする「貴種」の払底を補填する役割を演じたこと、競合者(御連枝や庶流などの足利一族)を俗界から追放する意味をもったこと、寺院側から室町殿に対して庇護の要求があったこと、入室者とその尊属への統制を強める意味があったこと、幕府所縁の門跡(三宝院)を継承する僧に対する身位保護などの意味があったことを指摘した。さらに、猶子政策の頂点と評価されてきた足利義政期についても再検討を行ない、義教期こそが最も強力に猶子政策が進められた時期であったと結論した。