- 著者
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三沢 伸生
Akcadag Goknur
- 出版者
- 日本中東学会
- 雑誌
- 日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
- 巻号頁・発行日
- no.23, pp.85-109, 2007-07-31
日本とイスラーム世界との関係史への関心が高まるにつれて、最初の日本人ムスリムが誰であるのかという問題にも注目が集まるようになってきている。幕末の開国以来、イスラーム世界に渡航する日本人、イスラーム世界から日本に来訪する人間が現れだした。こうした接触・交流から日本人でムスリムに改定した者が出てきたものと考える。しかしながら日本人のムスリム改宗に関する史料は乏しく、特定・検証作業は極めて困難である。現在、最初の日本人ムスリムとして言及されることが多いのは山田寅次郎である。しかしそれは完全なる誤りである。本稿で実証するように野田正太郎こそが、現在のところ諸史料によって確認することができる最初の日本人ムスリムである。管見の及ぶ限り、山田が最初の日本人ムスリムであるかもしれないと言及したのは、中田吉信氏である。その際に中田氏は1893年8月4日付け『毎日新聞』に掲載された「回々教日本に入らんとす」と題されたある西洋新聞の翻訳記事を主たる根拠とした。この記事には約2年間に及ぶイスタンブルでのコーラン研究を終えた、アブデュルハリルという名の日本人が日本へ帰国したので、今後に日本にイスラーム教が広まるかどうかが注目されると記されている。中田氏はこの記事から、従来最初の日本人ムスリムと言われていた山岡光太郎氏より前に、イスタンブルでムスリムになった日本人がおり、その頃にイスタンブル居住の日本人は山田寅次郎しかいないので、アブデュルハリルは山田以外にありえないと考えた。この仮説を補強するために、山田に関する評伝である『新月山田寅次郎』をもとに、山田が1892年4月にイスタンブルに入り、約1年4ヶ月で日本に一旦帰国した事実を拾い出した。しかしそれでも中田氏は直接証拠を発見できずに山田がアブデュルハリルであると同定するには至らず、仮説としてその可能性を提示するに留まった。しかしこの仮説の反響は大きかった。とりわけ戦前以来の著名な日本人ムスリムである小村不二男氏が、何ら確証を明示することなしに、この仮説を事実として著書に書き記してから、山田が最初の日本人ムスリムであることが定説のようになってしまった。しかし中田氏の仮説を検証してみると、誤りであることは明白である。第1にその当時イスタンブルに住んでいた日本人は山田だけではない。山田の来訪以前の1891年1月から「時事新報』記者の野田正太郎がイスタンブルに住んでいた。第2に山田の伝記には記載事実に混乱が見られ、日本の複数の新聞記事に依拠すれば、約2年後どころか山田はイスタンブルにわずか数ヶ月滞在して一旦日本に帰国していることがわかる。中田氏が考えるように山田がアブデュルハリルであると同定することは困難である。さらに日本・トルコの双方において様々な史料を渉猟した結果、最初の日本人ムスリムのアブデュルハリム(アブデュルハリルは誤り)は、中田氏の推測する山田ではなく、野田であると特定することができる。野田は自社の募集した「エルトゥールル号事件」のための巨額な義損金為替をオスマン朝に手渡しするために、69名の生存者とともに日本軍艦の比叡に便乗して1891年1月にイスタンブルに入った。そしてオスマン朝側が士官学校において日本語を教授しながらトルコ語を習得する日本人の逗留を望んだことから、野田はこの地に留まることとなった。野田は士官(当初2人、最終的には6人)に日本語を教えながら、トルコ語を習い、同時にオスマン史・イスラーム史・イスラーム教などを学習した。やがて如何なる理由からか不明であるが、1891年5月に野田は入信してムスリムとなり、アブデュルハリムの名を授けられた。この事実はイスタンブルの総理府オスマン文書館に保管される文書によって裏づけされる。またこの改宗は新聞・雑誌に掲載され、内外に広く知られることとなった。野田は日本語教育とトルコ語取得に励み、やがてコーランを学習するためにアラビア語を取得する必要性すら感じている。1892年4月に日本人同胞たる山田寅次郎がイスタンブルにやってきた。野田は公私にわたり山田を支援して、貿易業創始という彼の夢を手助けした。さらには自身の日本語教育において彼を短期的に助手として採用したものと考えられる。しかしながら如何なる理由からか後世の短い山田の自叙伝・友人の筆になる山田の評伝にも野田に関する言及が見られない。またこの自叙伝・評伝の記載事実にも混乱が見られ、充分に検証されなくてはならない。こうしたことが絡み合って山田と野田とが取り違えられることとなり、野田が忘却される一方で、山田に注目が集まる結果となったのである。1892年12月に野田は約2年間のイスタンブル滞在を打ち切って、欧米を見聞しながら1893年に日本に帰国した。帰国後は『時事新報』に復帰し、トルコに関係する随筆をいくつか書いたものの、いつしか退社してしまい、その名声も忘れられるようになった。さらに帰国後の彼の生活はムスリムとして賞賛されるものではなかった。新聞によれば彼は奢侈生活に浸り、その生活を続けるために2度の刑事事件にかかわった。晩年の詳細は不明であるが、野田は1904年4月27日に若くして没してしまった。