著者
清水 昭俊 Akitoshi Shimizu
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.307-503, 2008

2007 年9 月に国際連合(国連)総会は国際連合先住民権利宣言を採択した(国連総会決議61/295)。国連がその公的な意思として採択し表明した初めての先住権に関する包括的な規定である。国連の下部組織である作業部会がこの宣言の最初の草案を起草したのは1993 年だった。総会が決議するまでに14 年もの間隔があるのは,宣言の内容について国連加盟国が合意に達するのに,それだけ長期間を要したからである。その間,国連の外部では,1993 年の起草案は先住権に関する事実上の0 0 0 0 国際標準として機能してきた。国際法の専門家のみならず,先住民運動の活発な諸国では一般の間で,さらに国際機関や各国政府においてさえも,そのように受けとめられてきた。さらに,先住民組織はその運動を通してこの文書の影響力を高めてきた。この文書は事実上,先住民自身が発した一つの宣言―「1993 年宣言」と呼ぶべきもの―と見ることができる。これら状況的条件に加えて,この1993 年宣言は,先住権をその根拠とともに包括的に述べる均整のとれた構成と,よく練られた法的言語の表現によって,それ自体が説得力に富む文書である。1993 年宣言は2007 年決議に対しても,それを評価する標準となりえている。1993 年宣言を参照すれば,2007 年決議が多くの修正を受けたものであること,その修正は加盟国政府の国内先住民に対する利害と懸念を反影したものであることが,判明する。 この論文で私は,2007 年決議ではなく1993 年宣言を取り上げて,宣言が先住権を要求するその構造を分析する。分析の焦点は三つのテーマ,つまり,先住民としての権利,民としての基本的権利,復権のための国際的および国内的な制度的枠組みである。要求する権利の全体は,一つの独自の民に保障されるべき「民の集合的生命権」を構成する。この権利を先住民は拒絶されてきた。1993 年宣言は条文で先住民の権利を網羅している。それが可能だったのは,先住民の歴史経験を総括して「民族絶滅と文化絶滅」と認識するからである。1993 年宣言は国際法規を目指した文書であり,そこに述べる権利要求は,民としての集合的生命権の要求を初めとして,先住民に関わる既存の国際法の体系に変革を要求する。しかし,2007 年決議はこの種の変革を達成してはいない。逆に国連加盟国は,条文の文言を操作することによって,1993 年宣言の権利要求の構造を曖昧にすることに成功している。2007 年決議はもはや先住民の歴史経験「民族絶滅と文化絶滅」に言及してはいない。 論文の第二の課題として,国際法において先住民が彼らの権利を奪われ,彼らの存在が不可視にされた歴史を,歴史を遡る方向で追跡する。とりわけ国連と国際労働機構(ILO)が採択した国際法規が考察の焦点である。その後の歴史で先住民を不可視にした分岐点は,1950 年代初めにベルギー政府の主張した所謂「ベルギー・テーゼ」をめぐる論争だった。このテーゼによってベルギー政府は,国連の脱植民地化の事業について多数の加盟国が選択しつつあった実施形態に,異議を唱えた。「反植民地勢力」に対抗して,ベルギー・テーゼは国連の脱植民地化の事業の基底にある特性を暴いていった。ベルギー政府が全ての「非自治の先住の民0 0 0 0 」に平等の処遇を要求したのに対し,国連は脱植民地化の対象を「非自治の地域0 0 」つまり欧米宗主国の海外植民地に限定した。ベルギー・テーゼによれば,「反植民地勢力」が追求する脱植民地化のモデルはラテンアメリカ諸国の「革命」経験だった。それは,植民地が宗主国支配から解放される一方で,国内に先住民に対する植民地支配を持続させるモデルであり,実際,1950 年代以降に独立したアジア・アフリカの多くの新興国が,このモデルに従って,国内に先住民支配を持続させた。この国連による脱植民地化が再定義した国家像は,国内に先住民支配が埋め込まれた構造の国家だった。 国連の素通りした「非自治の」先住民を対象として,ILO は107 号条約を採択し,「統合」政策を推進しようとした。107 号条約は,「先住0 0 」諸人口に法的定義を与えた最初の国際法である。植民地征服という歴史的起点に言及して「先住0 0 」諸人口を捉えるこの「ILO 定義」は,その後の先住民に関する概念的な思考に影響力を発揮し,先住民自身の先住民に関する思考でさえ拘束した。107 号条約は国家に「後見」役を与え,「被後見」の先住民を「より発達した国民共同体」に統合することによって,国家に先住民「文化絶滅」政策を推進させようとする。ILO の統合政策は植民地主義の第二次世界大戦後における形態である。 1993 年宣言は,国連とILO による脱植民地化の政策を含めて,植民地支配の歴史からの回復を要求する。この論文で行う先住民の権利の歴史的考察は,共通に受け入れられている「先住民」の定義について,見直しが必要であることを示唆する。先住民の決定的な示差的特徴として,植民地征服に言及することは不適切である。1993 年宣言は,国家その他の外的エイジェントによる「先住民」の定義と認定を,拒否している。「先住民」の定義と認定は先住民自身の自己決定権に属すべきである。それと同時に,1993 年宣言は先住民を,「民族絶滅と文化絶滅」を被らされてきた民と描いている。1993 年宣言は先住民に対する呼びかけを含意してもいる。1993 年宣言は先住民運動の用具であるに留まらず,運動自体の容器でもある。
著者
清水 昭俊 Akitoshi Shimizu
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.543-634, 1999-03-15

マリノフスキーは,「参与観察」の調査法を導入した,人類学史上もっとも著名な人物である。その反面,彼は理論的影響で無力であり,ラドクリフ=ブラウンに及びえなかった。イギリス社会人類学の二人の建設者を相補的な姿で描くこの歴史叙述は,広く受け入れられている。しかし,それは決して公平で正当な認識ではない。マリノフスキーがイギリス時代最後の10年間に行ったもっとも重要な研究プロジェクトを無視しているからだ。この論文で私は,アフリカ植民地における文化接触に関する彼の実用的人類学のプロジェクトを考察し,忘却の中から未知のマリノフスキーをよみがえらせてみたい。マリノフスキーは大規模なアフリカ・プロジェクトを主宰し,人類学を古物趣味から厳格な経験科学に変革しようとした。植民地の文化状況に関して統治政府に有用な現実的知識を提供する能力のある人類学への変革である。このプロジェクトは,帝国主義,植民地主義との共犯関係にある人類学のもっとも悪しき実例として,悪名高いものであるが,現実には,彼の同時代人でマリノフスキーほど厳しく植民地統治を批判した人類学者はいなかった。彼の弟子との論争を分析することによって,私は,アフリカ植民地の文化接触について人類学者が観察すべき事象とその方法に関する,マリノフスキーの思考を再構成する。1980年代に行われたポストモダン人類学批判を,おおくの点で彼がすでに提示し,かつ乗りこえていたことを示すつもりである。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は,この新しい観点から見れぽ,旧弊な古物趣味への回帰だったが,構造機能主義者は人類学史を一貫した発展の歴史と描くために,マリノフスキーのプロジェクトの記憶を消去した。戦間期および戦後期初めの時期におけるマリノフスキーの影響の盛衰を跡づけよう。