著者
青野 正明 Aono Masaaki
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.15, pp.15-24, 2017-09-30

戦前、神社神道は非宗教とされ、植民地民を含めて日本国民が参拝する祭祀とされた。植民地朝鮮(1910~1945年)では国体明徴声明以降(1935年~)、皇祖神崇拝(アマテラスへの一神教的な崇拝)を強める神社神道が、日本国民というナショナリズムの形成(=国民教化)に用いられた。 この立場から本稿では、植民地朝鮮において神社神道が行政に追従し、天皇崇敬システム(国体論)と結びついたことを村落レベルにおいて紹介する。そして、村落レベルでの「神社」とは何かという問題を考えてみる。 まず日本人移住者の村々では、信仰の二重性を見いだすことができた。それは、天照大神(アマテラス)と「内地」の他の神々という祭神の二重性であった。彼らのこのような信仰の二重性に対して、神社行政は天照大神奉斎に吸収させる統制、つまり日本人移住者の国民教化を図る統制を推進していった。 一方、大多数である朝鮮人の村々では地方行政により官製「洞祭」(村祭り)の設置が企図されたことがあった。官製「洞祭」は在来「洞祭」と神社施設が接近して生まれた性質のもので、①神社と在来「洞祭」の習合を図るタイプと、②在来「洞祭」を神社化するタイプに二分される。前者のタイプは神社神道の土着性を重視する施策であったが、1935年以降の国体明徴期にはこのタイプは顧みられず、土着性よりも国民教化を優先させる意図のもとで、後者の在来「洞祭」を神社化する政策が推進された。 戦後、神社神道は単一的なナショナリズム形成をサポートし続けてきた。また、観光地などの神社が栄える一方で、過疎化が進む地方の神社は衰退の途にある。村落レベルにおいて神社とは何か、それは神社神道が今日も問われている問題ではないだろうか。*用語の説明 神祠:神社の下のクラス 無願神祠:行政から設立許可を受けていない神祠招待論文