著者
山口 建治 ヤマグチ ケンジ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-20, 2019-03-20

八坂神社や津島神社の祭神であった牛頭天王は、最初期には「五頭天王」とも称されていた。筆者はこれまで、この「五頭天王」は中国民間の五道大神(五道神、五道将軍とも称される)が日本に伝来した後の別称ではないかと指摘してきた。それはおもにゴトウ(五頭)、ゴズ(牛頭)というコトバの音声の類似性と神格の類似性に基づく仮説であった。ところが最近、滋賀県琵琶湖北岸の塩津港遺跡から発掘された大型木簡のうち、「五頭天王」と「五道大神」の両方がともに記されている一つの木簡があることに気づいた。 五道大神は今日の日本ではほとんど顧みられることのない、かつて日本に伝来してきたことすら忘れさられている中国の民間神である。しかし日本の密教仏典に照らしてみると、11~13世紀のころにさかんに行われた焔魔天(密教では閻魔をこのように称す)の修法のなかで重要な役を演じた神であり、それゆえとくに秘匿を要する神であったことがわかる。10世紀のころまで疫神として人々に崇められてきた「祇園の天神」が、本来どういう神であったかを明確に指摘した人はいないが、五道大神は密教では天部の神、仏法の守護神であり、まさに「祇園の天神」と称されるにふさわしい。11世紀のころ、この五道大神と入れ替わるように牛頭天王が文献上にも顕在化してくる。密教僧は、祇園神= 五道大神を秘匿する代償として、いわばその身代わりに、新たな祇園神= 五頭天王(のちに牛頭天王)を創出する必要があった、と考えられるのである。 小論は、塩津港遺跡起請文札のうちのある一つの木簡に、上界の神「五道大神」と王城鎮守の祇園「五頭天王」の両方がそろって記されていることの意味を読み解き、中国民間の五道大神が牛頭天王にすり替わる、その神格誕生の秘密の経緯をあらためて明らかにし、識者のご批評を仰ごうとするものである。
著者
石井 和帆
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.97-130, 2018-09-30

柳田国男の登場以前は文字以外に図像による記録がされていた。だが、柳田の登場によりヴィジュアル資料が内包する芸術性や演出の排除がおこり、図像による記録は一旦途切れてしまう。柳田以後は時代が下り、手軽に正確に民俗事象を切り取れる写真が記録手段として選択されるようになる。 ただ、写真が受容された近代以降においても明治期に残された写真は限定的であり、図像資料に頼らざるを得ないのだが、これまで民俗学において明治期の図像資料の検討や活用は十分になされてこなかった。それは資料としての図像の客観性の乏しさが要因の一つだと考えられる。絵師がイメージを出力する過程において不明確な要素が多数生じ、そこには表象された事物の正否はもちろんのこと、画面上に表象されない内包された意味も同時に生まれる。 また、当時の民俗事象全てが図像として描かれてきたわけではなく、描かれて残されてきた民俗事象と、そうでない民俗事象が同時に存在する。そこには近代の図像資料として民俗事象が描かれた意味が内包されており、図像を民俗資料として捉えにくくしている要因がある。 そこで、『風俗画報』に投稿された記事と挿絵を比較してみると、投稿者と絵師における視点の相違から絵師の意向が強く反映されることがあり、両者の主観が混在することで図像の客観性や正確性の低さが浮き彫りとなる。 また、民俗事象の中でも表現できる場面は限られており、距離という物理的な問題から描かれる地域が制約される場合や、日常よりも絵画映えする非日常の行事などが描かれる傾向にあった。加えて、民俗事象の中でも絵師は絵画映えする盛時(クライマックス)の場面を意図的に選択して描くことで、図像資料の場面に偏りが生じることが明らかとなる。 さらに、絵師によって意図的に事物を描かない、あるいは事実とは異なるように改変して事物を描く場合もあり、この場面の選択や事物の改変には柳田が排除した演出が含まれており、図像の客観性の乏しさが改めて露呈した。Prior to the work of(Kunio) Yanagita, scholars created pictorial records of folkloristic events along with written accounts. However, as Yanagita emerged as the leading scholar of folklore studies, iconographic materials as sources for folklore studies came to be rejected on grounds that pictorial representations have an inherent tendency to pay more attention to artistry and dramatic effect than to accuracy. In the period after Yanagita, photographs came to be used as a convenient and accurate method of recording folkloristic events. However, even though the use of photography has been widely accepted in modern and more recent times, photographs from the Meiji era are limited in number and relying on illustrative renderings often becomes necessary. Nevertheless, iconographic materials from the Meiji era have not been adequately examined or utilized until now. One reason may be the lack of objectivity seen in iconographic sources. Numerous undefined factors could have influenced the output process of eshi(painters and draftsmen), casting doubt on the accuracy of the events portrayed and raising the possibility of holding latent meanings which are not clearly evident. Furthermore, not all folklore events of the time were rendered into pictorial representations, with some folkloristic events being recorded as paintings or drawings while other events were not recorded at all. Representations of certain folklore scenes in modern times may also contain latent meanings, which make them difficult to accept as straightforward visual records. A comparison between the articles and their accompanying illustrations in the magazine Fuzoku gaho reveals that some of the illustrations strongly reflect a perspective which is widely different from the viewpoint of the articleʼs author, and the juxtaposition of the two subjective interpretations brings into sharp relief their lack of objectivity and accuracy. Furthermore, only certain scenes could be rendered into pictorial representations ; events taking place at physically distant locations could not be represented, restricting the portrayals of folklore events to certain regions, and there was also a tendency to prefer flamboyant special events over everyday practices. And eshi preferred picturesque scenes depicting the climax of folkloristic events, creating a bias in the iconographic materials. In addition, certain eshi may have intentionally omitted certain features from their representations or made factually inaccurate modifications. This selection of scenes and modifications by the eshi were the aspects of pictorial renderings that Yanagita rejected and has led to a renewed realization of the lack of objectivity in iconographic materials.論文
著者
姜 明采 Kang Myungchae
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.14, pp.275-319, 2017-03-20

大正期は、(短い間であったにもかかわらず社会全般に大きな変化をもたらしており、こうした変化に影響を受けた建築界でも、)新しい建築への数多くの試みとして様々な建築様式が登場してきた時期である。本稿は、こうした大正期における建築デザインの動向を検討するため、1924(大正13)年12月22日より1925(大正14)年2月28日まで実施された震災記念堂の設計競技に注目した。震災記念堂の設計競技応募図案は現在、全221案のうち設計競技の当選図案図集である『大正大震災記念建造物競技設計図録』に掲載された36案の当選図案と、震災記念堂の収蔵庫に収蔵されている39案の選外図案の75案が残存している。設計競技の当選図案とこれまで公開されていなかった選外図案の外観デザインを対象に、当時流行した建築デザインの要素とその傾向を考察することを本稿の研究目的とした。立面図や透視図などで外観の形状がわかる74案の応募図案を古典主義風、表現主義風、アール・デコ風、モダニズム風、和風、東洋風の6つのデザイン様式に分類し、各様式で最も多く見られたデザインの要素をまとめた結果、以下のことが明らかとなった。 まず、全体的な外観形状としては、不要な装飾的要素を抑え、ジッグラト風デザインや直線を多く用いて垂直性を強調した計画が多く見受けられた。また、ドーム屋根に左右対称の縦長開口部を多く用いた古典主義風の塔の形状とした「コンペティションスタイル」との類似性も見られ、すっきりしたモダンなデザインと均衡が取れた古典主義風デザインが共存していた様子がうかがえた。更に、その細部には、単純幾何学的装飾の反復と変形アーチの開口部などの装飾の要素を設けられ、設計者の個性を発揮したことが考えられる。こうしたシンプルな外観と個性的な細部装飾のデザイン要素から、大正期における建築デザインの動向が読み取れたと考えられる。In Taisho Period, architects conceived a variety of different styles, striving for new designs. This study take a close look at the Memorial Hall for Great Kanto Earthquake Design Competition held from December 22, 1924 to February 28, 1925, and attempt to reveal architectural trends in the era. Seventy-five of the 221 designs submitted to the competition have remained to date, with 36 contained in the collection of Designs Awarded in the Memorial Hall for Great Kanto Earthquake Design Competition ; 39 designs did not meet the award criteria but continue to be stored in the Memorial Hall Archive. So, this study analyzes the external appearance of the designs that are elected one and unselected one that have not been open to public viewing to examine the prevailing design elements and the design trend. The elevation and perspective plan of Seventy-five designs which shows the shape of the external appearance have classified 6types of design style ; Classicism, Expressionism, Art-Deco, Modernism, Japanese-temple Style, Oriental-temple Style, and clarified the most frequent elements in each style. First, lots of the external appearances of designs were appeared to restrain the unnecessary decorative elements and stack the floor like ziggurat style, also emphasize the verticality using the vertical line. And, there were also appeared ʻCompetition Styleʼ which is the classical tower shape using dome-like roof and the opening which are vertically symmetry. Therefore, it makes clear that Neat modern design and well-balanced classical design coexist in that time. Furthermore, it can be considered that designers demonstrate their individuality in details, like the repetition of the simple geometric design and deformation arch opening, etc. Thus, this study can be assumed to read the trend of the architectural design in Taisho period, the simple exteriors and unique details.2015年度奨励研究 成果論文
著者
青野 正明 Aono Masaaki
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.15, pp.15-24, 2017-09-30

戦前、神社神道は非宗教とされ、植民地民を含めて日本国民が参拝する祭祀とされた。植民地朝鮮(1910~1945年)では国体明徴声明以降(1935年~)、皇祖神崇拝(アマテラスへの一神教的な崇拝)を強める神社神道が、日本国民というナショナリズムの形成(=国民教化)に用いられた。 この立場から本稿では、植民地朝鮮において神社神道が行政に追従し、天皇崇敬システム(国体論)と結びついたことを村落レベルにおいて紹介する。そして、村落レベルでの「神社」とは何かという問題を考えてみる。 まず日本人移住者の村々では、信仰の二重性を見いだすことができた。それは、天照大神(アマテラス)と「内地」の他の神々という祭神の二重性であった。彼らのこのような信仰の二重性に対して、神社行政は天照大神奉斎に吸収させる統制、つまり日本人移住者の国民教化を図る統制を推進していった。 一方、大多数である朝鮮人の村々では地方行政により官製「洞祭」(村祭り)の設置が企図されたことがあった。官製「洞祭」は在来「洞祭」と神社施設が接近して生まれた性質のもので、①神社と在来「洞祭」の習合を図るタイプと、②在来「洞祭」を神社化するタイプに二分される。前者のタイプは神社神道の土着性を重視する施策であったが、1935年以降の国体明徴期にはこのタイプは顧みられず、土着性よりも国民教化を優先させる意図のもとで、後者の在来「洞祭」を神社化する政策が推進された。 戦後、神社神道は単一的なナショナリズム形成をサポートし続けてきた。また、観光地などの神社が栄える一方で、過疎化が進む地方の神社は衰退の途にある。村落レベルにおいて神社とは何か、それは神社神道が今日も問われている問題ではないだろうか。*用語の説明 神祠:神社の下のクラス 無願神祠:行政から設立許可を受けていない神祠招待論文
著者
田島 奈都子
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.20, pp.1-29, 2020-03-20

本稿は「大戦ポスター」としばしば称される、第一次世界大戦期に欧米で製作されたポスターが、1910年代半ば~1920年代までの間に、日本のデザイン界においてどのように受容され、影響を与えたのかについて論じた「戦前期日本のデザイン界における第一次世界大戦ポスターの受容と影響」の続きであり、1931年の満洲事変勃発以降、1945年の終戦までの間に、大戦ポスターがどのように取り上げられ、受容されたかについて検証することを目的としている。 日本における政治宣伝を目的としたプロパガンダ・ポスターは、1929年に陸軍省と文部省を依頼主として製作された作品に遡る。ただし、その製作が本格化したのは、1931年の満洲事変勃発以降であり、1937年の日中戦争開戦を契機として、それは一段と活発化した。しかし、それまでの日本においては、プロパガンダ・ポスターが製作されてこなかったことから、依頼主となる各省庁も依頼を受ける図案家も、どのような図案にすればよいのかわからず、その際に参照・翻案 とされたのが大戦ポスターであった。 こうして、大戦ポスターは十五年戦争期に再び注目され、ポスターや新聞広告を製作する際に盛んに翻案とされたが、この時代に積極的に選ばれたのは、銃剣を手にして戦う兵士を主題としたものや、機関銃や戦車、弾薬など、前線を感じさせる作品であり、1920年代までとは大きく異なっていた。ただし、十五年戦争期の日本においては、実際の製作・使用から10年以上が経過した大戦ポスターが再び注目され、新たなグラフィック作品を製作する上で大いに活用されたのは事実であり、その頻度は欧米よりも高く、影響は長く続いた。 なお、この時代の大戦ポスターは、市民に対して銃後の覚悟を促すための、格好の材料としても盛んに活用され、実際にはそのような文脈で、直接的に紹介・使用されることの方が多かったことも忘れてはならない。
著者
石井 和帆
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.81-110, 2019-09-30

『風俗画報』に収録された挿絵の数も膨大であり、且つ形態や描かれた時代、画題なども様々である。さらに、挿絵を描く絵師と、それに関連する記事を書く編集員あるいは地方の好事家も多数存在することで、極めて複雑であることが、同誌の資料的評価を困難にしている要因だろう。そこで、本論考では『風俗画報』の挿絵を描いた絵師を数人選別し、特に地方を描いた風俗画に着目して正否を分析するように試みた。 まず、その前提となる『風俗画報』を取り巻く出版背景についてまとめる。吾妻健三郎は石版印刷技術を習得後、同誌を創刊すると非常に人気を博した。そのため、全国に流通し、全国各地の風俗に関する投書が送られるようになる。また、編集会議では好事家による投稿記事を精査し、どの風俗を掲載するのか検討され、絵師には編集員から指示が降り、その編集方針に従って挿絵を描くことになる。遠方への取材の場合は、編集員に絵師が同行し、現地で絵師はスケッチを行い、編集員は記事にする風俗について調査するのが基本の形である。 このような方法で描かれた地方の民俗事象は、風俗を記録する視点を持った編集の意図が反映されたものであった。遠方への取材では編集員に絵師が同行する形をとるため、的確に特定の民俗事象を伝える場面の選択、モチーフやランドマークを配置する画面構成が行われる。そのため、絵師によって特定の民俗事象の描き方に大きな差異が生まれることはなく、編集員によって一定の統一性が図られているといえる。 中には、社会的・政治的背景によって意図的に描かれない場面や事物もあるが、描かれている事物や場面に関しては実際の風俗や出来事を表象している。つまり、戦争絵や災害絵など、絵師が直接見聞することが困難な場面を描く際は想像画にならざるを得ないが、全国各地の風俗を収集する場合は基本的には取材を行い、実景を得て描いているため資料的価値は高いといえるだろう。論文
著者
加治 順人
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.37-68, 2018-09

本稿では、琉球・沖縄の神社の歴史を概観して、その多面的な特徴を指摘する。 琉球・沖縄の神社神道の歴史とは、琉球・沖縄が日本と向き合ってきた歴史と軌を一にする。しかし、それは単に在来信仰が日本の宗教文化に包摂されたことを意味するのではない。日本からの文化的影響を受け、時に政策的に統制されながらも、さまざまな特例措置や独自の改変によって、沖縄特有の神社文化を形成してきた。 沖縄で最初の神社は、14世紀後半に創建されたと伝えられる。だが、おそらくそれ以前から沖縄では、日本の神道の考え方とよく似た信仰の形態を育み、その聖地である御嶽を祀ってきた。だからこそ在来信仰と親和的な熊野信仰が琉球に根付くことになったのだろう。琉球王朝時代の官社「琉球八社」には、在来信仰と日本の神道が巧みに混合されている。薩摩の琉球侵攻、明治維新による琉球処分、日清戦争以後の日本の近代戦争、沖縄戦、アメリカによる占領期、本土復帰、と琉球・沖縄の近現代史はめまぐるしい変動にさらされた。だが、逆説的なことに、明治時代の改革、太平洋戦争、本土復帰、と「日本化」の風圧が特に強まった時期に、かえって民間信仰が正式に神社神道へ参入する道が拓かれてきたのである。その結果、沖縄では独自の神社文化が形成されたと筆者は考えている。 筆者は現役の神職で、沖縄県護国神社に勤めて22年になる。自身が職務を通じて経験したこと、関係者への聞き取り、現地調査での発見も「資料」として記述に活かした。そのほか、写真、古地図、慣習、建造物などの非文字資料も活用するよう努めている。The aims of this paper are to provide an overview of the history of the Shinto shrines in Ryukyu⊘Okinawa, and to discuss their unique multi-faceted characteristics. The history of shrines in Okinawa has been influenced by that of Japan-Ryukyu⊘Okinawa political relationships. However, it does not mean that Ryukyu⊘Okinawaʼs indigenous religious beliefs have been passively assimilated to the religious traditions of Japan. Okinawa has been indeed influenced by the Japanese culture, including its government policies. But, within Japanʼs sphere of influence, the Okinawans have developed their own unique shrine culture. Okinawa has benefited from reinterpreted and modified the Japanese governmentʼs preferential measures. Though the first shrine in Okinawa was probably founded in the late 14th century, well before then its people had developed religious beliefs which were very similar to Shintoism of Japan. Then the Ryukyuʼs Eight Shrines, the official shrines of the Ryukyu Dynasty, clearly blend together their own religious traditions and the Japanese Shinto, while keeping its uniqueness Furthermore, during the periods of increasing pressure to" become Japanese" such as during the Meiji reforms, the Japanʼs modern wars since the Sino-Japanese war, and the reversion to Japan in 1972, Okinawaʼs indigenous religion found a way to formally merge into the system of the mainstream Shintoism of Japan, and allowed the Okinawan to develop a unique Shinto shrine culture in Okinawa. The author is currently an active Shinto priest who has served at the Gokoku Shrine in Okinawa for 22 years. This paper draws on his personal experience as a Shinto priest, based on interviews with relevant parties, as well as discoveries made through fieldwork research. The author also attempted to elucidate the history of religion in Ryukyu/Okinawa, by including nonwritten M aterials such as photographs, old maps, rchitecture, and descriptions of traditional customs.招待論文
著者
小村 純江 Komura Sumie
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.25-55, 2017-09-30

妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれる。 秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域であり、その信仰体系の中には現在「屋敷神的要素」「氏神的要素」「生産神的要素」の三つの要素を認めることができる。 本稿で秩父地方を事例とし、この三つの要素を基に妙見が地域に果たす役割と地域の人々の妙見への思いについて調査したところ、次のような傾向を認めることができた。 一つ目の「屋敷神的要素」については、秩父市中宮地にある関根家の敷地内に祀られている「妙見塚」と周辺地域に伝わる妙見を調査した。その結果、「妙見塚」と宮地地域に伝わる妙見は、関根家の屋敷神的存在であるとともに地域の屋敷神的存在として代々守り伝えられていた。二つ目の「氏神的要素」については、秩父神社を災いから守るために祀られたと伝えられる「秩父七妙見」の一つである身形神社を調査したところ、妙見に対する地域の人々の意識は以前と変わらず、今後も妙見を守り伝えていく心意気を持っていた。三つ目の「生産神的要素」については、妙見の祭祀である秩父神社の「御田植際」と「秩父夜祭」を調査した。この二つの祭祀に係る人々は、現在、秩父市内で農業や商業・加工業等、主に生産業に携わっており、妙見への祈りは生産神への祈りとなっている。また、この三つの要素は互いに影響し合う一面を持っていた。 以上の調査を踏まえ、現在の秩父地方の妙見を概観すると次の二つの様相が認められた。一つは「古態の持続性を維持する」妙見であり、「屋敷神的要素」を持つ妙見と「氏神的要素」を持つ妙見の中に伝えられていた。もう一つは妙見の祭祀を媒介とし「地域振興の育成」に貢献する妙見であり、「生産神的要素」を持つ妙見の祭祀の中に伝えられていた。
著者
佐々木 長生 ササキ タケオ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.35-63, 2019-09-30

農書は、わが国では元禄時代(1688~1703)を境に上層農民や下級武士等によって著述されてきた農業技術書である。若松城下近くの幕内村(会津若松市)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(1684)に『会津農書』を著述している。会津地方の自然に即した農法を、著者自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習を中心に著述している。わが国の農書の代表とされる宮崎安貞の『農業全書』(元禄10年1697)より13年も早く、古典的価値を有する農書といえる。 農書は、稲作や畑作また農民の生活に関る内容を主に著述されたものが多く、本来は「非文字資料」であったものが、「文字をもつ伝承者」の著者によって、「文字資料」化された存在といえる。『会津農書』は、著者佐瀬与次右衛門という「文字をもつ伝承者」が江戸中期に会津地方の農法や農耕儀礼等の「非文字資料」を農書という「文字資料」化された形に達した一例と位置づけることもできる。 本稿は、こうした視点に立って『会津農書』にみる「非文字資料」から「文字資料」化への一例を、麦の栽培技術と民俗を軸に述べることを目的とする。麦は雑穀のひとつでもあるが、米に次ぐ主穀的な存在として、全国的に栽培されてきた。麦は、「クリーニングクロップ」とも呼ばれ、麦を栽培した跡地は病虫害防除の性質もあるという。 『会津農書』でも麦を栽培した跡地に煙草を植えると、ネギリムシが付きにくいと記載されている。『会津農書』には麦栽培に関する農耕儀礼も多く、「麦穂掛」なども記載されている。同様の儀礼は、埼玉県内では近年まで行われてきた。また、麦に関する食習や食物加工など、麦に関る民俗が多く行われてきた。麦の栽培が全国的に廃止され、麦に関する農法や民俗も消滅しつつある。「文字をもつ伝承者」により農書という形をとり、「非文字資料」が「文字資料」として、その歴史・文化的価値を現在に遺しているともいえる。
著者
姜 明采 Kang Myungchae
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.275-319, 2017-03-20

大正期は、(短い間であったにもかかわらず社会全般に大きな変化をもたらしており、こうした変化に影響を受けた建築界でも、)新しい建築への数多くの試みとして様々な建築様式が登場してきた時期である。本稿は、こうした大正期における建築デザインの動向を検討するため、1924(大正13)年12月22日より1925(大正14)年2月28日まで実施された震災記念堂の設計競技に注目した。震災記念堂の設計競技応募図案は現在、全221案のうち設計競技の当選図案図集である『大正大震災記念建造物競技設計図録』に掲載された36案の当選図案と、震災記念堂の収蔵庫に収蔵されている39案の選外図案の75案が残存している。設計競技の当選図案とこれまで公開されていなかった選外図案の外観デザインを対象に、当時流行した建築デザインの要素とその傾向を考察することを本稿の研究目的とした。立面図や透視図などで外観の形状がわかる74案の応募図案を古典主義風、表現主義風、アール・デコ風、モダニズム風、和風、東洋風の6つのデザイン様式に分類し、各様式で最も多く見られたデザインの要素をまとめた結果、以下のことが明らかとなった。 まず、全体的な外観形状としては、不要な装飾的要素を抑え、ジッグラト風デザインや直線を多く用いて垂直性を強調した計画が多く見受けられた。また、ドーム屋根に左右対称の縦長開口部を多く用いた古典主義風の塔の形状とした「コンペティションスタイル」との類似性も見られ、すっきりしたモダンなデザインと均衡が取れた古典主義風デザインが共存していた様子がうかがえた。更に、その細部には、単純幾何学的装飾の反復と変形アーチの開口部などの装飾の要素を設けられ、設計者の個性を発揮したことが考えられる。こうしたシンプルな外観と個性的な細部装飾のデザイン要素から、大正期における建築デザインの動向が読み取れたと考えられる。
著者
蒋 明超
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.199-221, 2019-09-30

「石敢當」は中国古代の習俗の一つで、一般的に道路の突き当たりや家の壁、橋の入り口などに設置される魔除けや厄除けのための石造物である。石敢當には一般的な石敢當(泰山の文字がない物)と泰山石敢當がある。具体的な出現時期と発祥地は不明であるが、石敢當は唐代末期に今の福建省南部で誕生したと考えられている。宋元時代には北方の山東泰山地域で泰山石敢當が出現した。 中国古代史料の中に、石敢當に関する事柄が頻繁に出ているが、石敢當を建てる習俗の記述を除くと、そのほとんどは石敢當の由来についての解明である。古代資料には泰山石敢當の実物及び泰山石敢當を設定する事情の記述も多くあるが、興味深いことに、泰山石敢當の由来についての記述は一つもなかった。 1970 年代以後、日本でも石敢當に関する多くの書物に中国の石敢當が書かれているが、その研究は主に中国南方に限られており、単独で泰山石敢當を対象にしたものは特に行われていなかったといえる。一方で、同時代の中国の石敢當研究は、まさに泰山石敢當ブームであったともいえる。現時点では、中国においても、日本においても、石敢當と泰山石敢當を分けて比較する研究はほとんど行われていない。 本稿では、中国北方と南方における石敢當のフィールドワークを通し、先行研究の資料と併せて各地域の石敢當の様子、石敢當と泰山石敢當の割合、地域住民の石敢當に対する認識などを調査し、中国南北の石敢當にはどのような異同があるのかを究明したい。中国の地理テキストは秦嶺―淮河を境界線にして、中国南方と北方を分けている。本論文で使用する中国南方と北方はおおよその範囲であり、必ずしも地理定義のように精確なものではない。なお、中国少数民族集住地域と山東省、福建省、浙江省など漢民族集住地域の石敢當はまた違うため、本論文では少数民族集住地域を対象外とする。調査地域は、中国北方の山東省泰山地域と南方の福建省中南部地域を選定した。
著者
下地 和宏 シモジ カズヒロ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-30, 2020-01

日本の神社には鳥居、狛犬、灯籠、拝殿、神殿などの付属施設が建設されている。沖縄の宮古の御嶽の奥中央にはイビ(威部)と呼ばれる御神体の石が安置され、神が鎮座すると考えられている。他に複数のイビがある。これは遙拝の神である。イビ手前の広場が神庭であり、ここに祭祀のために籠る祭祀小屋が設けられている。宮古には800余の御嶽があるといわれる。多くの御嶽は神社風に施設が建設され変化しているが、厳かなる場所に変わりはない。 「琉球併合」後の沖縄の近代化は、「忠君愛国」の教育とともに歩んできた。「教育勅語」の暗唱、「御真影」への最敬礼、宮城遙拝、天皇陛下万歳三唱などを強制されてきた。いわゆる「皇民化教育」の洗礼を受けた人々が、日本への「同化」に向けて、多くの住民が参詣する由緒ある御嶽の「神社化」を図った。鳥居、灯籠を建立、籠り屋を拝殿に、イビを神殿に改築し神社風に変えた。とりわけ鳥居は御嶽(神社)への入り口として象徴的に扱われた。鳥居建立の風潮は戦後も引きずることになる。むしろ拡大し、御嶽に神社と表記する地域も見られる。今や鳥居は違和感なく御嶽に建立されている。老朽化した神明系の鳥居は明神系に再建される傾向にある。招待論文
著者
加治 順人 カジ ヨリヒト
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.37-68, 2018-09-30

本稿では、琉球・沖縄の神社の歴史を概観して、その多面的な特徴を指摘する。 琉球・沖縄の神社神道の歴史とは、琉球・沖縄が日本と向き合ってきた歴史と軌を一にする。しかし、それは単に在来信仰が日本の宗教文化に包摂されたことを意味するのではない。日本からの文化的影響を受け、時に政策的に統制されながらも、さまざまな特例措置や独自の改変によって、沖縄特有の神社文化を形成してきた。 沖縄で最初の神社は、14世紀後半に創建されたと伝えられる。だが、おそらくそれ以前から沖縄では、日本の神道の考え方とよく似た信仰の形態を育み、その聖地である御嶽を祀ってきた。だからこそ在来信仰と親和的な熊野信仰が琉球に根付くことになったのだろう。琉球王朝時代の官社「琉球八社」には、在来信仰と日本の神道が巧みに混合されている。薩摩の琉球侵攻、明治維新による琉球処分、日清戦争以後の日本の近代戦争、沖縄戦、アメリカによる占領期、本土復帰、と琉球・沖縄の近現代史はめまぐるしい変動にさらされた。だが、逆説的なことに、明治時代の改革、太平洋戦争、本土復帰、と「日本化」の風圧が特に強まった時期に、かえって民間信仰が正式に神社神道へ参入する道が拓かれてきたのである。その結果、沖縄では独自の神社文化が形成されたと筆者は考えている。 筆者は現役の神職で、沖縄県護国神社に勤めて22年になる。自身が職務を通じて経験したこと、関係者への聞き取り、現地調査での発見も「資料」として記述に活かした。そのほか、写真、古地図、慣習、建造物などの非文字資料も活用するよう努めている。
著者
游 舒婷
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.17, pp.125-149, 2019-03-20

西来庵事件という植民地期台湾で最も大規模な武装蜂起が1915年に起きたことを背景に、 宗教的な問題が表面化し、1919年に『台湾宗教調査報告書』が刊行された。蜂起に巻き込まれた 農民は「迷信」にとらわれる「愚か」な民衆と捉える傾向があった。だが、信仰に基づいた民衆世界はまさに俗民社会の一つの特質を表すものであると考える。僧侶・道士・巫覡・術士といった宗 教的職業者が、民衆にとってはどのような存在であったのか、彼らの社会的地位はどうであったの か。本稿は民間療法、識字問題、職業の階級的な分類などの側面から、その一端を考察するもので ある。 僧侶・道士・巫覡・術士というのは職能による便宜上の分類で、実際に複数の職能を有する人が 少なくない。植民地初期における彼らは社会地位の低い存在であった。僧侶や道士の大半は寺廟に属するものではなく、市井において生計を維持し、寺廟や信徒に対して権威を持たないものである。 巫覡は清領期では娼女や俳優と同じく「下九流」という賤民階級に属していた。日本統治下、こうした身分制度は廃止されたが、この職業に向けられる差別意識が民衆の中に根付いていったようである。ところが、植民地初期における識字者は極めて少なかったという状況の中、それらの宗教者(特に術士)はある程度の漢学的能力、即ち文化資本を持っている存在でもあった。また、病気による死亡率が高かったという状況の中、彼らは「病気平癒」を行ったりすることで、民衆に頼りにされる存在であった。彼らは病気の原因について現報因果説を説いたり、社会秩序の維持にも貢献したりした。1918年における僧侶・道士・巫覡・術士の人口割合について、澎湖島は台湾島(特に西部)のそれより遥かに高い数字を示した。このことが両地域の社会的差異を語っているのであろうか。
著者
游 舒婷 Yu Shuting
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.14, pp.321-347, 2017-03-20

台湾で流通していた暦には、清国、日本、国民党それぞれの統治の正統性を象徴する公式の暦(官暦)と、それを底本にして編纂されていた民間暦がある。清国の時間規範である旧暦、特にその中の吉凶日は、宇宙論的王権のイメージを表象するものである。民間暦に記されている吉凶的意味づけに官暦と違う解釈がみられると同時に、宇宙論という前提を共有する上で、宇宙論的王権のイメージが、福建や広東から輸入された民間暦の流通や吉凶的意味を読み取れる人を通して台湾に拡がっていった。 それに対して、近代文明を表象する時間規範である新暦は、清末を端緒としてキリスト教の宣教師によって台湾に伝わった。それから、日本統治下に入ると、天皇を頂点とする時間秩序と新暦を文明開化とする二重のイメージが表現されている日本暦(明治政府が1872年に下した改暦詔書を基にして頒布した官暦)は、神宮教によって普及されたが、台湾総督府がその普及に積極的な姿勢を示さなかった。それに替わって、1913年に総督府は「日本暦」と「中華暦」の折衷ともいわれるような体裁をとっている「台湾民暦」を頒布した。台湾民暦は行政システムを通して上から下へと普及されていく過程で、地方行政レベルの社会に侵入し、記憶された。それが原因であるようで、戦後、台湾民暦と似たような構成をとっている民間暦(「農民暦」という)が刊行された。国民党統治下で中華文化が推進されていることが背景にあると考えられるが、そのような民間暦に記されている吉凶日は段々と増えて、60、70年代の高度経済成長と共に、台湾の家々に浸透していった。 本稿は、暦に記されている吉凶日の変容、さらに暦の流通、暦と関わっている人々の実態について考察したものである。それによって、宇宙論的王権のイメージが日本そして国民党統治時代にわたってどのように再編されたか、どのように継続していたか、その消長を明らかにし、それを通して台湾における近代化の様相の一端をみることを目的とする。Taiwan has adopted an official calendar that represents the orthodoxy of the Qing Dynasty, Japanese rule and the Nationalist government, and a folk calendar developed based on the official one. The old calendar that the dynasty used as a dating system―the notion of days of fortune and misfortune in particular―symbolizes cosmological sovereignty. The interpretations of those days differ between the two types of calendars. Moreover, along with cosmology itself, the concept and image of cosmological sovereignty spread to Taiwan through the circulation of the folk calendar imported from Fujian and Guangdong and interpreters of the days of fortune and misfortune. The new calendar signifying modern civilization was introduced at the end of the Qing Dynasty and brought into Taiwan by Christian missionaries. Under Japanese rule, the Japanese calendar that incorporated a date system based on the period of the reign of the emperor and Japanese cultural enlightenment was adopted and promoted by a sect of Shinto called Jingu-kyo. It was an official calendar proposed by the Meiji government, but the Taiwan Governor-Generalʼs Office was not willing to circulate it. Instead, the office adopted the Taiwanese folk calendar that combined the Japanese and Chinese chronological systems in 1913. It was introduced to the public in a top-down manner through the government administration system and came to be commonly used at a local government level and downward. After World War II, an agricultural calendar similar to the Taiwanese calendar was launched in the wake of the promotion of Chinese culture under the Nationalist government. The number of days of fortune and misfortune in this calendar gradually increased and started to be widely used in Taiwanese households during the period of high economic growth in the 1960s and 1970s. This paper will examine changes in the days of fortune and misfortune in these calendars, the circulation of each calendar system, and people involved in the process. In doing so, the rise and fall of the concept of cosmological sovereignty, such as how it was reconstructed and preserved under Japanese rule and the Nationalist regime, will also be discussed, thereby revealing aspects of Taiwanʼs modernization.2015年度奨励研究 成果論文
著者
華 雪梅
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.149-175, 2019-09

秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を探すために、徐福(ジョフク)が日本に渡来したという伝説は、日本最北の地 北海道から最南端の鹿児島県に至るまで、全国に伝承されている。本論文では、筆者がさまざまなロマンにあふれる佐賀県佐賀市の徐福ゆかりの地を訪れ、人々に語り継がれてきた徐福伝説の歴史と現状を考察する。地元に語り継がれている口碑と文字記録として残された史料などを併せて分析すると、徐福伝説が地元で盛んに流布されていた時代は、江戸時代であろうと推測される。 佐賀市には徐福に関わるさまざまな地名や事物、伝説がある。浮盃(ブバイ)・寺井・千布(チフ)という地名は、徐福伝説に由来するといわれ、古くから地元の人々に語り継がれてきた。事物としては、「徐福が持ってきた」といわれている樹齢2200 年のビャクシンの古木がある。また、筑後川に生息する「エツ」という川魚は、葦の片葉が川面に落ちて生まれたという伝承や、徐福が見出した「フロフキ」という仙薬もある。伝説としては、徐福と地元の娘のお辰との悲恋伝説がある。地元の住民たちは、この伝説を熟知し、情熱を傾けて語り継いでいる。さらに、佐賀市に伝わる口碑によると、徐福は不老不死の仙薬を探すため、金立山に登り、地元の金立神社の祭神となったといわれる。往古から住民たちの信仰を集め、「金立大権現」と呼ばれて祭られている。このように徐福伝説は、佐賀市でさまざまな形で伝えられ、地元に融合し、生き生きと伝承されている。 民間伝承として伝わる徐福伝説は、関連する事物によって、地元の人々に記憶として刻み付けられている。特に、雨乞い行事と金立神社例大祭が行われる時期になると、徐福伝説にちなんだ事物は、その伝説に対する記憶を思い出す糸口となり、古くからの徐福信仰の記憶を呼び戻しながら、また新たな信仰の記憶を構築する。本論文は佐賀県佐賀市の徐福伝説にまつわる事物の調査や、地元の人々に対する聞き取り調査を基に、徐福伝説が佐賀市で定着し、語り継がれている背景や要因と、その伝承形式を明らかにするものである。論文
著者
佐々木 長生
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.35-63, 2019-09

農書は、わが国では元禄時代(1688~1703)を境に上層農民や下級武士等によって著述されてきた農業技術書である。若松城下近くの幕内村(会津若松市)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(1684)に『会津農書』を著述している。会津地方の自然に即した農法を、著者自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習を中心に著述している。わが国の農書の代表とされる宮崎安貞の『農業全書』(元禄10年1697)より13年も早く、古典的価値を有する農書といえる。 農書は、稲作や畑作また農民の生活に関る内容を主に著述されたものが多く、本来は「非文字資料」であったものが、「文字をもつ伝承者」の著者によって、「文字資料」化された存在といえる。『会津農書』は、著者佐瀬与次右衛門という「文字をもつ伝承者」が江戸中期に会津地方の農法や農耕儀礼等の「非文字資料」を農書という「文字資料」化された形に達した一例と位置づけることもできる。 本稿は、こうした視点に立って『会津農書』にみる「非文字資料」から「文字資料」化への一例を、麦の栽培技術と民俗を軸に述べることを目的とする。麦は雑穀のひとつでもあるが、米に次ぐ主穀的な存在として、全国的に栽培されてきた。麦は、「クリーニングクロップ」とも呼ばれ、麦を栽培した跡地は病虫害防除の性質もあるという。 『会津農書』でも麦を栽培した跡地に煙草を植えると、ネギリムシが付きにくいと記載されている。『会津農書』には麦栽培に関する農耕儀礼も多く、「麦穂掛」なども記載されている。同様の儀礼は、埼玉県内では近年まで行われてきた。また、麦に関する食習や食物加工など、麦に関る民俗が多く行われてきた。麦の栽培が全国的に廃止され、麦に関する農法や民俗も消滅しつつある。「文字をもつ伝承者」により農書という形をとり、「非文字資料」が「文字資料」として、その歴史・文化的価値を現在に遺しているともいえる。論文
著者
程 亮 Cheng Liang
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.253-274, 2017-03-20

狐仙〈Huxian〉信仰は中国北方地域において極めて普遍的な民間信仰の一つである。中国人にとって、狐は古代から身近な動物であった。狐が霊力を持つ生き物と信じられ、やがては狐信仰、狐神信仰、狐仙信仰という伝承となって定着していくのである。現代中国の東北地方や華北地方などの農村部では、今でも狐仙祭祀の事例が報告されている。 筆者は2014 年から2016 年まで、これまで狐仙信仰調査の空白地帯である華中地方に入り、湖北省西北部の山村部において狐仙信仰の現地調査を行った。調査地では、狐仙が家に祀られる理由に邪症〈Xiezheng〉治療と富の増加があげられるが、「病気が治った」という理由で狐仙を祀り始める事例が多い。それは、現地では狐仙の憑依、祟りが邪症の原因と見なされているためである。村人たちは「病気」を「実病〈Shibing〉」と「邪症」に分けて対応する。邪症の原因に、鬼、祖先、神の祟りなどがあるが、狐仙の憑依、祟りがほとんどである。本発表では、湖北省西北部の山村部における邪症治療の実態を報告し、それと狐仙信仰の関係性を明らかにした。 当地における邪症の治療者として、馬子〈Mazi〉、法官〈Faguan〉、端公〈Duangong〉、陰陽仙〈Yinyangxian〉などの民間巫医がある。彼らは邪症の原因を狐仙などの超自然的存在と説明し、邪症の治療を行い、狐仙信仰の伝播者として存在する。 邪症の病者に女性が圧倒的に多い。村社会の女性たちは婚姻、生育、家庭安全などの面で男性より精神的ストレスを受けているため、時には元気も気力も弱くなり、時には熱が出て頭痛し、時には意識障害になる。彼女たちは上述した症状を邪症と認識し、巫医に治療を求める。邪症が治った際、病者は狐仙の信者となり、その信仰の伝播者として存在する。 狐仙信仰は邪症の説明体系として巫医たちによって維持され運用されていると考えられる。また、邪症治療という実践を通じて治療者・巫医と病者・村人の双方によって伝承されている。
著者
李 百浩 Li Baihao 松本 康隆 Matsumoto Yasutaka
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.63-80, 2016-09-30

This paper will outline the history of the former Nanjing Shrine―parts of whose hallof worship and shrine office still remain―from the perspective of the architectural history of Nanjing City, and discuss reasons why parts of the shrine have been preserved. Before the shrine was erected, Mount Wutai, or Qingliang Shan, was an educational district where construction of a stadium and a conference hall was planned. In 1939, after Japan occupied the region, it was decided that a shrine be built in the area. Land was acquired for this purpose in 1941, and construction started in 1942, followed by a ceremony to summon the spirit of a deity called Chinza-sai in November 1943. The construction was completed in 1944. Gokoku Shrine was built next to Nanjing Shrine around the same time. After Japan's surrender, Nanjing Shrine was turned into a memorial hall for heroes of national resistance, and Gokoku Shrine became a pillage exhibition center. The Mount Wutai area came to serve its original function as an educational district ; consequently, the plan to build a stadiumwas revisited, leading to its construction after the People's Republic of China was founded. The former Nanjing Shrine came under the management of the Sport Bureau of Jiangsu Province, causing it to be used as a facility for table tennis, the bureau's senior activities and meetings. Later, the shrine faced the danger of possible demolition due to the need to collect cypress bark for paper production in 1958 and housing construction in 1985. Nevertheless, university professors called for its preservation. It is unknown until when its inner shrine remained intact and when Gokoku Shrine was torn down. Of all of Nanjing Shrine's structures, only its hall of worship and office remain. Four reasons why they have not been destroyed are in chronological order as follows : they are of high quality in terms of structure and space ; the inner shrine started to be used as a war memorial hall because shrines and such memorial halls both enshrine holy spirits ; the shrine lost its original function upon the foundation of People's Republic of China but maintained its value as a usable structure ; and a plan in 1985 to tear down the shrine arose from a decrease in the value of onestory structures in response to accelerated urban congestion after China's reform and opening up. Conversely, the shrine started to be viewed as a historical heritage.論文