著者
大前 敦巳 Atsumi OMAE
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 = Bulletin of Joetsu University of Education (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.67-78, 2015

本稿は,1960年代の新構想大学創設に向けた政策形成過程に着目し,1957年科学技術者養成拡充計画に端を発する高等教育計画が,文部省と経済企画庁の調査局による情報提供に加え,ユネスコやOECDの国際機関,イギリスのロビンズ報告,アメリカのカリフォルニア州高等教育計画などの影響を受けて,欧米の「計画planning」をキャッチアップしながら洗練化していった様相を明らかし,その到達点と課題を考察することを目的とする。1960年の経済審議会による国民所得倍増計画と,国際的な経済発展に伴う教育計画の高まりを背景に1963年中教審三八答申の審議が進められ,1967年の四六答申諮問後,1970年1月の「高等教育の改革に関する基本構想試案」において長期総合計画の原型が確立され,その後公聴会などの意見聴取による修正を経て1971年の答申に至った。この時期には中教審と並行して,東京教育大学内部でもカリフォルニア大学の「クラスター・カレッジ制度」の影響を受けた新構想大学のプランが立案され,1970年筑波研究学園都市法を経て,1973年筑波大学関連法に結実し開学に至った。しかし,同年の第一\次石油ショックを契機に修正を迫られた1976年からの高等教育計画では,私立大学の抑制を政策的に誘導することに計画の重点が置かれ,人材需要に対応する新構想大学の拡充は例外として扱われるにとどまった。