著者
山本 勉 荻野 愛海 花澤 明優美 Tsutomu YAMAMOTO Manami OGINO Ayumi HANAZAWA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.39, pp.49-84,

東京都品川区荏原一丁目一―三・専修寺本尊阿弥陀如来および両脇侍像三軀は「木造阿弥陀三尊像」の名称で品川区指定有形文化財に指定されている。二〇一七年度の品川区文化財公開に関連して、二〇一七年八月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環でこの三軀の調査を実施した。本稿では、調査の詳しい成果を報告し、あわせてこの一具の彫刻史上への正確な位置づけをおこなう。三軀は定印を結ぶ阿弥陀如来坐像に蓮華を捧げる左脇侍観音菩薩立像と合掌する勢至菩薩立像が随侍する来迎形の阿弥陀三尊像で、各像がヒノキ材の割矧ぎ造りの技法になる。阿弥陀如来像と左脇侍像のおだやかな姿は平安時代末期、十二世紀後半頃の製作とみられる。右脇侍像は少し作風が異なり、やや遅れる時期、鎌倉時代にはいってからの製作を思わせる。三尊は昭和二十二年(一九四七)に千葉県市原市の光明寺から移されたものであるが、阿弥陀如来像内の銘記によって、室町時代、永正五年(一五〇八)に上総国佐是郡池和田の正福寺の像として修理されたことが知られる。正福寺は昭和十五年に光明寺に合併された寺である。三尊の彫刻史上の問題としては、まず阿弥陀如来坐像の両脇に来迎形の両脇侍立像が随侍する形が平安時代最末期に特有のもので安元元年(一一七五)頃の製作とみられる神奈川・証菩提寺像と共通することがあげられる。また正福寺の寺名や修理関係者の名は、光明寺に現存し、やはりかつて池和田にあった東光寺本尊であったという薬師三尊像中尊の永正元年の銘記にもみえ、当時の池和田における修理や造像の活発な状況を想像することもできる。以上を総合して、この三尊が平安時代末期の時期の関東地方の造像の水準を示すものであると評価する。