著者
山本 勉 小久保 芙美 神野 祐太 伊波 知秋 ヤマモト ツトム コクボ フミ ジンノ ユウタ イナミ チアキ Tsutomu YAMAMOTO Fumi KOKUBO Yuta JINNO Chiaki INAMI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.35, pp.95-167, 2014-03

東京都荒川区の社会福祉法人上宮会所蔵聖徳太子像は、像内銘により、文永七年(一二七〇)に仏師尭慶が製作したことの知られる鎌倉時代後期の規準作品である。本稿では、二〇一三年五月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環で実施した調査の概要を、「伝来」「像の概要」「銘記および納入品」の三章に分けて報告し、さらに日本彫刻史上の意義や周辺の問題についても、「聖徳太子造像における位置」「形式と表現」「仏師尭慶について」の三章に分けて論述する。この像は、聖徳太子像の典型的形式のひとつである孝養太子像の初期作例として貴重である。銘記によれば不退寺(現在も奈良市に所在する不退寺にあたる可能性がつよい)の像として造られたもので、さらに十六歳の肖像であると明記し、その形式の原型となった像の存在が暗示されることも注目される。また、形式や表現の点で奈良・元興寺の善春作聖徳太子像と共通する点が多く、作者尭慶はその他の事績をふくめても、鎌倉中・後期の奈良で活躍した善派仏師と関係が深いこと、などが明らかになった。末尾には、近代以降のこの像の伝来に関する文献を関連史料として付載した。
著者
山本 勉 荻野 愛海 花澤 明優美 Tsutomu YAMAMOTO Manami OGINO Ayumi HANAZAWA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.39, pp.49-84,

東京都品川区荏原一丁目一―三・専修寺本尊阿弥陀如来および両脇侍像三軀は「木造阿弥陀三尊像」の名称で品川区指定有形文化財に指定されている。二〇一七年度の品川区文化財公開に関連して、二〇一七年八月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環でこの三軀の調査を実施した。本稿では、調査の詳しい成果を報告し、あわせてこの一具の彫刻史上への正確な位置づけをおこなう。三軀は定印を結ぶ阿弥陀如来坐像に蓮華を捧げる左脇侍観音菩薩立像と合掌する勢至菩薩立像が随侍する来迎形の阿弥陀三尊像で、各像がヒノキ材の割矧ぎ造りの技法になる。阿弥陀如来像と左脇侍像のおだやかな姿は平安時代末期、十二世紀後半頃の製作とみられる。右脇侍像は少し作風が異なり、やや遅れる時期、鎌倉時代にはいってからの製作を思わせる。三尊は昭和二十二年(一九四七)に千葉県市原市の光明寺から移されたものであるが、阿弥陀如来像内の銘記によって、室町時代、永正五年(一五〇八)に上総国佐是郡池和田の正福寺の像として修理されたことが知られる。正福寺は昭和十五年に光明寺に合併された寺である。三尊の彫刻史上の問題としては、まず阿弥陀如来坐像の両脇に来迎形の両脇侍立像が随侍する形が平安時代最末期に特有のもので安元元年(一一七五)頃の製作とみられる神奈川・証菩提寺像と共通することがあげられる。また正福寺の寺名や修理関係者の名は、光明寺に現存し、やはりかつて池和田にあった東光寺本尊であったという薬師三尊像中尊の永正元年の銘記にもみえ、当時の池和田における修理や造像の活発な状況を想像することもできる。以上を総合して、この三尊が平安時代末期の時期の関東地方の造像の水準を示すものであると評価する。
著者
有賀 祥隆 浅井 和春 山本 勉 武笠 朗 長岡 龍作 津田 徹英 泉 武夫 瀬谷 貴之 井上 大樹
出版者
東北大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2006

三か年の期間中に、東北(岩手・宮城)、関東・甲信越(群馬・千葉・東京・神奈川・山梨)に加え、範囲を関西(京都・奈良)と中国地方(広島)にも一部広げ、都合、寺院・神社24ヶ所、34件46躯1箇1片、公共機関6ヶ所、8件20躯1双1柄、個人1ヶ所、1件1躯の物件を調査し、詳細な写真と基礎データを収集した。この成果は刊行準備中である。
著者
山本 勉 小久保 芙美 神野 祐太 伊波 知秋 ヤマモト ツトム コクボ フミ ジンノ ユウタ イナミ チアキ Tsutomu YAMAMOTO Fumi KOKUBO Yuta JINNO Chiaki INAMI
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.95-167, 2014

東京都荒川区の社会福祉法人上宮会所蔵聖徳太子像は、像内銘により、文永七年(一二七〇)に仏師尭慶が製作したことの知られる鎌倉時代後期の規準作品である。本稿では、二〇一三年五月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環で実施した調査の概要を、「伝来」「像の概要」「銘記および納入品」の三章に分けて報告し、さらに日本彫刻史上の意義や周辺の問題についても、「聖徳太子造像における位置」「形式と表現」「仏師尭慶について」の三章に分けて論述する。この像は、聖徳太子像の典型的形式のひとつである孝養太子像の初期作例として貴重である。銘記によれば不退寺(現在も奈良市に所在する不退寺にあたる可能性がつよい)の像として造られたもので、さらに十六歳の肖像であると明記し、その形式の原型となった像の存在が暗示されることも注目される。また、形式や表現の点で奈良・元興寺の善春作聖徳太子像と共通する点が多く、作者尭慶はその他の事績をふくめても、鎌倉中・後期の奈良で活躍した善派仏師と関係が深いこと、などが明らかになった。末尾には、近代以降のこの像の伝来に関する文献を関連史料として付載した。 The statue of Shotoku Taishi owned by the Jyogu Hospital Social Welfare Group (Jyogu Kai), Arakawa-ku, Tokyo is a standard work in the late Kamakura Period, known to be created by Busshi (sculptor of Buddhist statues) Gyokei in 1270 from the inscription in the statue. This paper reports an outline of an investigation conducted as a part of a seminar in "Art History Seminar III", a course offered by the Department of Cultural History, Graduate School in May, 2013, in three chapters; "History", "Outline of the Statue", and "Inscription and Items inside the Statue" and discusses its meaning in Japanese sculpture history and peripheral issues in three chapters; "Position in Creation of Shotoku Taishi Statues", "Style and Expression", and "Busshi Gyokei". This statue is valuable as an example of the early stage of statues of Kyoyo Taishi (considered to be a style of praying, being concerned about the condition of his father), which is one of typical styles of statues of Shotoku Taishi. According to the inscription, this statue was made for Futai-ji temple (this temple is likely to be Futai-ji still located in Nara city) and is clearly described as an image at 16 years old, and the suggestion of presence of a statue used as a model of the style attracts attention. The statue has many points in common regarding style and expression with the statue of Shotoku Taishi made by Zenshun in Gango-ji temple in Nara, and it was found out that Gyokei had a close relationship with the Zen-pa School Busshi who were active in Nara in the middle to late Kamakura period also in terms of other achievements. Materials relating to the history of this statue in the modern period and after are attached to the end of the paper.
著者
真武 弘明 内藤 説也 小河原 悟 飯田 三雄 松井 敏幸 岡部 信郎 山本 勉 藤田 晃一 岡田 光男 八尾 恒良
出版者
一般財団法人 日本消化器病学会
雑誌
日本消化器病学会雑誌 (ISSN:04466586)
巻号頁・発行日
vol.86, no.7, pp.1448-1454, 1989 (Released:2007-12-26)
参考文献数
42

日本人 Crohn 病患者108例のHLA-A, -B, -C, -DRおよびDQの検索を行ない, 日本人 Crohn 病とHLAとの関連性について検討した. 日本人 Crohn 病患者ではDR4が有意に高率であり, そのsubtype であるDR4.1の出現頻度が有意に高率であつた. B51, Bw54, DRw12, DRw13, DRw52は対照群に比べ出現頻度が高い傾向を示したが, 有意差は認めなかつた. DR2, DQw1, DQw3は有意に低率であり, B7は低い傾向を示した. 日本人 Crohn 病患者においては, DR4特にDR4.1, またはそれに連鎖している部位に疾患感受性遺伝子があることを推測した.
著者
山本 勉
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.91-108, 2015-03-01

本稿においては、渋江保の代表的な著作、万国戦史に焦点を当て、日清戦争時に出版された万国戦史の概要について触れると共に、全24巻の万国戦史の中で、渋江名義の10巻及び他筆者名義ではあるが、渋江が実質執筆者であることが確認された8巻についても取り上げ、渋江はどのように万国戦史を執筆したのか、万国戦史シリーズ執筆において渋江が果たした役割や万国戦史24冊の特徴について考察する。
著者
山本 勉
出版者
東京国立博物館
雑誌
Museum (ISSN:00274003)
巻号頁・発行日
no.589, pp.2-4,7-42, 2004-04