著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.1-24, 2013-03-08

近世期の延岡藩領宮崎郡村々に関する庄屋日記は、管見の限り現在二冊しか残されていない。このうち跡江組浮田村庄屋を勤めた湯地栄四郎が残した「諸品控帳」は、安政二年末から明治三年八月まで記された御用日記である。内容としては郡内の村役人関係や年貢諸役、寺社祭礼、往来、失業・生活、事件・騒動など多彩である。この御用日記から幕末期の宮崎郡村々がどのような状況にあったのか、村人たちはどのように生きていたのかを明らかにするために、四章に分けて考察した。 第一章では宮崎郡支配の仕組みについて、宮崎役所と組・村との関係、代官と村役人、大庄屋元詰を通して明らかにした。第二章では宮崎郡の年貢と諸役について、太田組を対象に年貢上納米と運上銀、郡中勘定および献納賦課銀について考察した。 第三章街道と村では、宮崎郡を往来する諸階層の実相と長州出兵時の出役状況を明らかにした。第四章では、災害とその対策のあり方を示すとともに、郡中の灌漑用水(溜池)の造成状況について明らかにした。
著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.1-24, 2015-03-13

「交代寄合」は旗本身分のひとつで、かつては「三千石以上の無役の旗本で参勤する寄合」と定義され、幕末期には三三家があった。米良氏は米良山を領する交代寄合であったが「無高」で、参府はするものの江戸屋敷も持たず人吉藩江戸屋敷に寄居した。本稿では交代寄合である米良氏について、その系譜を整理・検討し、人吉藩との関係から人吉藩支配米良山の成立過程、米良氏の家督相続、参府状況、領主仕置権の観点から検討を加えた。そこで確認できたのは、米良氏の家督相続や参府額・暇願など、対幕府関係のほとんどすべてが人吉藩を通して行われていたこと、さらに米良氏の領内で起きた逃散などの事件でも、米良氏が独自に刑罰を科すことはできず、幕府や諸藩との交渉を含め人吉藩が主体となって処理がなされていたことである。また米良氏は「無高」とされ、米良山に設定された鷹巣山の管理が唯一の「役」であった。五年に一度参府をしたが、参府中は人吉藩江戸屋敷を仮住居とし、幕府の諸儀礼にも参列せずに一~二ヶ月で帰山したことなどを明らかにした。
著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.1-31, 2021-03-10

幕末期、諸藩にとって他藩の動向を正確に掌握することは、自藩の取るべき道を決定する指針になる最重要課題であった。 本稿では日向延岡藩を対象に、同藩が作成した文久二年の「風聞書 乾坤」の内容分析を通して、藩の探索システムを明らかにした。延岡藩では城附西方の高千穂・飛地宮崎郡・豊後にそれぞれ役所(代官所)が置かれ、そこを拠点に周辺諸藩の探索が行われた。各役所から届く風聞書の内容は多岐にわたり、情報提供者も上級武士階級から一般庶民に至るまでさまざまであった。 延岡藩が特に重視した探索対象藩は、薩摩藩・熊本藩それに豊後岡藩であった。「風聞書 坤」には九州諸藩の諸侯の評価が記されているが、評価が高いのは唐津藩世子小笠原長行・蓮池藩主鍋島直紀であり、岡藩主中川久昭や熊本藩主細川韶邦・久留米藩主有馬頼咸の評価は低い。この時期藩主の資質が求められていたことがわかる。文久二年という限定した期間の風聞書ではあるが、当時の民衆が諸侯や藩のあり方をどのように捉え評価していたかは、幕末期の地域社会を知る上でも重要である。
著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.1-26, 2018-03-09

幕末期の一連の政治史において、薩摩・長州・土佐・越前各藩など雄藩が、重要な役割を果たしたことは言うまでもないが、藩全体の八割を占めた九万石以下の小藩はいかにして幕末期を乗り切り、維新を迎えたのだろうか。本稿では、日向延岡藩七代藩主であった内藤政義が記した自筆『日記』から、元治~慶応期に譜代小藩である延岡藩の動向を考察した。政義の交際は、実家の井伊家、養子政挙の実家太田家、それに趣味を通じて交流のあった水戸徳川家など広範囲にわたる。元治元年七月の禁門の変以降、二度に及ぶ長州征討に政挙が出陣しているが、江戸にいる隠居政義は高島流炮術や銃槍調練に励む一方、政局とはかけ離れた世界に居た。政義は梅・菖蒲・桜草・菊観賞に頻繁に遠出し、また水戸慶篤と品種交換や屋敷の造園に勤しんだ。在所からの為替銀が届かず藩財政は破綻に瀕しており、慶応三年末、薩摩藩邸の焼き討ちを契機に政義は在所延岡への移住を決断する。六本木屋敷に養母充真院を残したまま、翌慶応四年四月、政義は奥女中や主な家臣家族ともども品川を出船し延岡へ向かった。幕末期の譜代小藩の動向を窺うことができる。
著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.1-34, 2020-03-06

長州戦争とは、元治元年から慶応二年まで、幕府が二次にわたって「朝敵」となった長州藩の征討を試み、幕府軍の敗北に終わった内戦である。日向延岡藩は譜代藩としてこの長州戦争に二度とも出陣しており、藩政および藩財政に与えた影響は極めて大きいものがある。 本稿では藩主内藤政挙が出陣した第二次征長をとりあげ、旗本後備の拝命から大坂出陣・滞坂、広島出陣について「御用部屋日記」から検討を加えた。滞坂中の下陣や巡邏出役のあり方、続出する病死人への対処、長引く滞在で風紀紊乱に陥った家臣・人夫たちをどのように統制したかなどを明らかにした。 また慶応二年六月、延岡藩は芸州口討手応援を命じられるが、広島に到着したのは大幅に遅れた七月である。その背景には病人の増加と在所から登坂する人夫不足があった。小倉城自焼の知らせを受けた藩は、幕命より自領守衛を優先し、着芸わずか一週間で大半の兵士・人夫を帰国させる。延岡藩にとって長州戦争は、莫大な財政支出と多数の病死人を招いただけであったが、延岡藩はこの後も鳥羽伏見戦争まで、譜代藩として幕府との封建的主従関係を維持することになる。
著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA
出版者
宮崎公立大学
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.1-24, 2014

「交代寄合」は旗本身分のひとつで、かつては「三千石以上の無役の旗本で参勤する寄合」と定義され、幕末期には三三家があった。米良氏は米良山を領する交代寄合であったが「無高」で、参府はするものの江戸屋敷も持たず人吉藩江戸屋敷に寄居した。本稿では交代寄合である米良氏について、その系譜を整理・検討し、人吉藩との関係から人吉藩支配米良山の成立過程、米良氏の家督相続、参府状況、領主仕置権の観点から検討を加えた。そこで確認できたのは、米良氏の家督相続や参府額・暇願など、対幕府関係のほとんどすべてが人吉藩を通して行われていたこと、さらに米良氏の領内で起きた逃散などの事件でも、米良氏が独自に刑罰を科すことはできず、幕府や諸藩との交渉を含め人吉藩が主体となって処理がなされていたことである。また米良氏は「無高」とされ、米良山に設定された鷹巣山の管理が唯一の「役」であった。五年に一度参府をしたが、参府中は人吉藩江戸屋敷を仮住居とし、幕府の諸儀礼にも参列せずに一~二ヶ月で帰山したことなどを明らかにした。
著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA
出版者
宮崎公立大学
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.1-21, 2015

近世において地域社会は自権断を保持し、自力解決は制限を加えながらも温存されていた。小稿では日向国延岡藩領を対象に、地域秩序を乱した場合、また乱すと見なされた「徒者」に対して、地域社会がどのような方策を取ったかについて検討した。常日頃から住民相互による「人品」監察が行われており、「人品不宜」者や「徒者」は、村替えや村からの追放が行われた。身内に「徒者」がいる場合は、本人はもとより親類・五人組・村役人たちの障りになる前に、親・親類から勘当・帳外れの申請がなされた。村が主体となって「徒者」を村外に追放した例も少なくなかった。治安を乱しかねない地域外からの往来者については、その宿泊を制限するなど厳しく対処された。藩は領内での行き倒れ人への処理・埋葬法などを細かく定め、後難を蒙らないよう細心の注意を払った。追放となった者も悪事をしていないことを確認し、旦那寺からの歎願という形を取って帰村が認められた。この場合、領主権力と地域社会の間に位置する旦那寺の存在はきわめて大きい。また大赦も帰村の口実が利用された。こうした「ムラ社会」は近代以降も生き続けることになる。