著者
下田 正弘 LEE J.-R.
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2005

本研究の究極的な目標は、インド初期仏教教団の分裂と異説共存の問題を明らかにすることである。そこで、初期仏教教団で発生したと判断される様々な紛争事件を集め、その内容及び解決法などを吟味し、教団で起こり得る紛争の種類と、その解決法の多様性を把握する作業を進めている。その過程で、現前僧伽、すなわち、教団の実質的な活動の基準となる境界がどのように運営されていたのか、その具体的な姿の解明に力を注いだ。なぜなら、現前僧伽こそ、教団紛争の拠点となるからである。その結果、一つの境界によって成立する現前僧伽というのは、地域的な意味だけではなく、むしろ、精神的に結ばれた比丘たちが一定の場所に居住しながら、教団の行事や会議を一緒にしたり、また、布施物を一緒に享受するというような性格を持っている可能性の高いことがわかった。ここで、精神的に結ばれたというのは、例えば、教理の面で異見をもつ者がなかったり、あるいは、教団の決定に対して反対立場を取らないようなことである。現前僧伽がもつ独立した性格は、パーリ律の注釈からはより明確な形で現れており、時代が進むにつれ、段々強くなっていったと思われる。時々、相手の境界を壊すという表現が出てくるが、これは、各現前僧伽が、ある意味で、対立していた状況を思い出させる。一方、罪を犯した比丘に下される懲罰羯磨に関する諸伝承からも、現前僧伽の運営方針の一面を確認することができた。懲罰羯磨とは、罪を犯した比丘に対して教団が懲罰を下すために行う会議であるが、パーリ律とその注釈、及び、これに相当する漢訳律を比較検討した結果、その対象となる罪に不可解な点が存在することがわかった。比丘が罪を犯した場合には、普通、懺悔によって罪を償うが、この羯磨は、教団が告白懺悔を促しても全く耳を傾けず、勝手に行動して、教団の秩序に危険をもたらす者が主な対象となる。しかし、対象となるその具体的な罪の内容は非常に包括的であり、かつ、曖昧である。そして、すべての場合において強調されるのは、‘もし教団が欲するならば'という表現だけである。これは、同じ罪であっても、教団側の意思によって、懲罰羯磨の対象になることも、ならないこともあったことを推測させる。厳密な規則を立てず、すべてを現前僧伽の判断に委ねる態度からは、いつでも、問題児を現前僧伽から排除することができた可能性さえ窺える。点として数多く存在した現前僧伽は、むしろ、このような独立した性格に基づき、自由に分裂を重ね、また、それを包括する四方僧伽という概念によって仏教徒としてのアイデンティティを保つことができたと思われる。