著者
熊本 裕 LIVSHITS V.A DESYATOVSKAY ヴォロビョー ウ 吉田 豊 VOROBYOVAーDE VOROBYOVAーDE
出版者
東京大学
雑誌
国際学術研究
巻号頁・発行日
1993

「日本・ロシア共同による中央アジア出土イラン語文書の研究」は、1980年代末のペレストロイカによるロシアの急速な政治的・文化的自由化の進行という情勢に基づいて計画された。旧ソ連体制下で日本の研究者にほとんど実見の機会が与えられていなかった、レニングラード(のちサンクトペテルブルグ)の科学アカデミー東洋学研究所所蔵の中央アジア出土写本の豊富なコレクションを実地調査すると共に、同じく国外への旅行が厳しく制限されていたロシアの研究者を日本に招聘して、中央アジアを専門領域とする日本の言語学・歴史学・宗教学者と交流を図り、また量的にははるかに少ないが貴重な遺物を蔵する大谷蒐集品(龍谷大学蔵)を比較調査してもらう、という双方にとって極めて有益な活動を実現することを目的とした。1991年に予備調査で当時のLeningradに赴いた熊本(研究代表者)は、ロシア側のVorobyova-Desyatovskaya及びLivshitsと協議の結果、大筋の計画に合意し、3年計画の科学研究費国際共同研究を申請して、これが承認された。計画初年度の1993/94年は、熊本(研究代表者)と吉田(研究分担者)が、ペテルブルグの東洋学研究所で調査を行ない、Vorobyova-Desyatovskaya(研究分担者)が来日して、東京と神戸で在ロシアの中央アジア出土写本について4回の講演を行うとともに、京都の龍谷大学で大谷探検隊蒐集の写本の調査を行なった。計画2年目の1994/95年は、熊本と吉田が再びペテルブルグを訪れて前年度の調査を続行し、Livshits(研究分担者)を日本に招聘すべく準備を整えたが、不幸にして来日直前にLivshitsの入院という事態により年度内の来日は不可能となり、代わりに吉田が年度末に3度目のペテルブルグ訪問を行なうこととなった。計画3年目の1995/96年は、前年度に来日できなかったLivshitsとVorobyova-Desyatovskayaの2人を招聘する予定で準備を行なったが、Vorobyova-Desyatovskayaの来日はビザ申請手続上の問題から、当初の予定の10月から2月に延期され、またLivshitsの来日も、すべての準備が整った出発直前の段階で急病のため中止となった。その代わりに熊本が、1月に3回目のロシア訪問をして、最後の調査を行なうことが出来た。ペテ