著者
Morimoto Ryohei Ossaka Joyo
出版者
東京大学地震研究所
雑誌
東京大學地震研究所彙報 (ISSN:00408972)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.221-250, 1955-08-10

昭和27年9月17日午前7時15分頃,ベヨネイズ列岩(31°55.3'N, 139°54.5'E)の東方約10km.の海面に,漁船「第十一明神丸」によつて海底噴火が発見報告きれた.この噴火によつて出現した島は,発見した船の名を取つて「明神礁」と命名された.明神礁は,第五海洋丸と共に殉職した三田亮一氏によれば,ベヨネイズ列岩を外輪山の一角とする複式火山の中央火口丘の一つといわれ,この附近には明治29年, 39年,大正4年,昭和9年, 21年に噴火の記録がある.しかし,海底地形の概略と,明治39年噴出安山岩質浮石の簡単な記載のほか,火山の詳細は知られていなかつた.今回の噴火は, 9月24日,調査に派遣された海上保安庁水路部測量船第五海洋丸の遭難という,火山研究史上未曽有の事件勃発のため,各方面の注目を惹くに至つた.第五海洋丸が海底爆発によつて遭難したと信じられる9月24日の前日,筆者らは,東京水産大学(旧水産講習所)練習船「神鷹丸」に乗船して現場に臨み,海底爆発を目撃観察する機会を得たので, (1)今回の噴火の活動経過, (2)昭和27年9月23日の海底爆発の情況, (3)各種抛出物の岩石記載を詳細に述べることにした.本篇では,噴火の発見から活動が休止したと思われる昭和28年秋までの明神礁の活動の経過を,各方面の資料を集めて記載し,昭和27年9月23日の海底爆発の情況を詳述した.この活動期間に,明神礁は3回,海面に出現しては海没した.すなわち,昭和27年9月17日に,その熔岩ドームの頭端を海面上に現わして数日後から,活動は爆発的となり, 9月23日の相続く水中爆発によつて水没し, 10月3日から10日の間に水面上に出現してそのご翌年3月9日まで,熔岩尖塔を海面上に見せていた.昭和28年3月に入つて,また爆発をくりかえし3月10日に水没した.第3回目に海面上に現れたのは4月のはじめで,このときの熔岩尖塔や熔岩円頂丘も, 8月下旬のひきつづいた爆発で崩壊水没し,そののちも,浮石,火山塵で海水を黄濁させる水中噴火を続けていたが,そのごは確実な消息なく,噴火活動を終息したものと思われる.明神礁はこのように,徐々に熔岩円頂丘或ひは熔岩尖塔を突出させたのち,大量の浮石抛出を伴う烈しい爆発活動をつづけて円頂丘や尖塔を崩壊するという過程を,今回の活動期間中に, 3回くりかえしたことになり,あとで述べる抛出岩石の岩石学的性質も,このようなPele式噴火の活動型式を裏づけている.
著者
津屋 弘達 Morimoto Ryohei Ossaka Joyo
出版者
東京大学地震研究所
雑誌
東京大学地震研究所彙報 (ISSN:00408972)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.289-312, 1954-09

伊豆大島三原山の昭和26年の噴火は,2月4日開始,4月1日頃まで約2ケ月間,連続噴火し,小休止ののち,更に間歇的噴火を繰返して6月28日に終った.2月及び3月の噴火は,昭和25年,26年の噴火期間を通じての最高潮であった.われわれは,この連続噴火を,第2期の活動として,前回詳述した昭和25年7月16日-9月23日の第1期の活動[地震研究所彙報32号,第1冊,35-66頁1及び,4月2日以降6月28日に至る第3期の活動と区別して,ここにその噴火経過を詳しく記述した.第2期の噴火は,三原火口の西半で行われた.とくに,前年の噴火によって生じた噴石丘頂上附近から,火口北西縁に至る,南東-北西方向の裂線に沿って演ぜられた(第72-73図参照),すなわち,爆発的活動は,噴石丘西側火口底に形成された熔岩々滴丘の活動に始まって,噴石丘頂上火孔の定常的爆発活動へと,南京に移行し,一方,熔岩の溢流は,熔岩々滴丘よりの流出に出発して,火口北西線に沿う火孔群から長期にわたって溢流するようになる.この結果,火口原(カルデラ底)北西に拡がる熔岩原が形成された(第120図).この期の終りに,噴火は,火口の東半に移り,次期活動の前駆と見なされる,火口北東隅からの熔岩溢泣かはじまる(第73図b).この月間を通じて,火口中央の噴石丘をも含めて,火口底の西半は,局部的及び一時的沈下はあったが,全般的に,上昇を続け,3月下旬活動休止後急激に沈下した.この火口底の上昇,沈下は,それぞれ,岩漿の上昇と,熔岩溢出によるガス圧の低下によるものである.火山微動の盛衰も,この火口における噴火の消長と,きわめてよく調和していた(未完).
著者
Morimoto Ryohei Ossaka Joyo Fukuda Tomoko
出版者
東京大学地震研究所
雑誌
東京大學地震研究所彙報 (ISSN:00408972)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.359-375, 1957-09-25

昭和24年12月26日午前8時18分と26分に於いて起きた地震にともなつて,栃木県上都賀郡今市町[現在今市市]を中心とする大約20km四方の地域に地変を生じたが,そのうちでも火山噴出物起源の洪積層分布地域に生じた地崩れと地辷りが,ことに著しかつた.[地震研究所彙報28号(昭和25年),379-386頁,同29号(昭和26年),349-358頁].この第3報では,その存在が地変を生じた素因の一つとなつた洪積世の火山噴出物の各堆積層-上より(O)表土層・(A)黄色浮石層(鹿沼土層)・(B)赤褐色浮石石(今市土層)・(C)上部ローム層・(D)白粘土層・(E)下部ローム層-の主体をなす火山琉璃の風化生成物である粘土の鉱物組成,化学成分などについて研究を行つた.各試料の微細な部分についてX線分析・示差熱分析・熱減量測定・化学分析を,また原土について粒度分析・比重・含水量・吸水率の測定などの結果を報告した[第I-VIII表].これによると上層の表土層・鹿沼土層・今市土層はまだ再結晶の進まないアロフェンによつて,上部ローム層・白粘土層・下部ローム層などの下部層は再結晶度の低い加水ハロイサイトによつて代表されているが,そのうちでも白粘土層は,とくに多量の加水ハロイサイトを含んでいると考えられる.なおこれらの火山噴出物起源堆積層は,原岩の構造をよく残しているが,火山玻璃の部分は化学的にはきわめて変化が進んでいる.すなわちSiO2はいちぢるしく減少し,これに引きかえてAl2O3の富む結果となり,また1,2の層ではCaOが,いくつかの層ではMgOがわづかにその一部を残して,大部分が失もれ,Na2O,K2Oはほとんど完全に溶脱していた.この結果,鉄の過剰な今市土層を除く他の各層のAl2O3+Fe2O3とSiO2との比はいずれも1:2となつている.とくに加水ハロイサイトを多量に含む白粘土層は,その含水率,吸水能ともに最大の値を示し,地変に際しその地辷り面となつた.