著者
沼野 充義 Morrison Shaldjian
出版者
現代文芸論研究室
雑誌
れにくさ = Реникса : 現代文芸論研究室論集 (ISSN:21870535)
巻号頁・発行日
no.3, pp.188-206, 2011

特集 世界文学へ/世界文学から : 比較・翻訳・日本と世界The Todai-Yale Initiative Lecture Series (Fall 2009), Dec. 8, 2009, Yale University「東大-イェール・イニシアティヴ」(両大学間の学術交流プログラム)主催レクチャー・シリーズ, 2009年12月8日, イェール大学現代日本でもっとも人気のある作家は誰かと聞かれたら、私は村上春樹とドスとエフスキーだと答えたい。ドストエフスキーは日本人ではなく、ロシアの作家であるということは、いかに迂闊な私でも知らないわけではないが、このところ、『カラマーゾフの兄弟』の新訳が100万部を超えるベストセラーになったことをきっかけにドストエフスキーの人気が急上昇し、いまや彼は現代日本の作家として蘇ったかのようである。しかし、このドストエフスキー人気はいま急に始まったわけではない。明治時代の日本において、近代文学の形成に対してロシア文学が巨大な影響を与えたことはよく知られている。二葉亭四迷や白樺派の作家たちにとって、ロシア文学は決定的に重要だった。第二次世界大戦後は、『近代文学』に依拠した批評家たちを始めとして、「戦後派」の作家たち全般にロシア文学の影響が濃厚に感じられる。また早稲田大学の露文科はすぐれた作家たちを輩出した。またロシア文学を専攻していなくとも、ロシア文学に造詣の深い現代作家としては、加賀乙彦、大江健三郎、井上ひさしなどがいる。ロシア文学はその後、現代にかけて影が薄くなってきたように見えるが、じつは潜在的には巨大なインスピレーションの源であり続けてきた。その素地があってこそ、今日のドストエフスキー・ブームも可能になったのである。この講演では、主として1980年代以降に活躍を始めた新しい世代の現代日本作家6名を取り上げ、彼らの作品を具体的に紹介しながら、ロシア文学が彼らの作品にどのように影響を与えているか、ロシアのイメージがどのように現れているかを検討していく。6名の作家とは、池澤夏樹、島田雅彦、村上春樹、黒川創、中村文則、鹿島田真希である。彼らの作品に登場するロシア人に、スパイ、秘密警察、独裁者、売春婦などといった相も変わらぬステレオタイプ的な人物が多いのは事実だが、これらの優れた作家たちは皆それぞれの方法でステレオタイプを超えて、狭く閉ざされがちな現代日本文学に風穴をあけ、そこから形而上的な息吹や宇宙的な響きを呼び込むための「文学的手法」としてロシアを使っている。そのロシアとは、現実のロシア、「プーチンのロシア」とはあまり似ていないものかもしれないのだが。