- 著者
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井上 岳彦
Takehiko Inoue
- 出版者
- 国立民族学博物館
- 雑誌
- 国立民族学博物館研究報告 (ISSN:0385180X)
- 巻号頁・発行日
- vol.40, no.2, pp.215-233, 2015
本稿では,マダム・ブラヴァツキーが少女時代を過ごしたロシアにおいて,1830 年代から40 年代にカルムィク人やチベット仏教に関する知識がいかなる状況にあったかを考察する。18 世紀には外国人学者・探検家が中心となって,カルムィク人とその信仰は観察され描写された。カルムィク人の信仰はモンゴルやチベットとの類似性が強調され,カルムィク草原は東方への入口として位置付けられた。19 世紀になると,ロシア東洋学の進展ととともに,カルムィク人社会は次第にモンゴルやチベットとは別個に語られるようになった。こうして,学知としてはモンゴルやチベットとの断絶性が強調された一方で,ロシア帝国の完全な支配下に入ったカルムィク草原では,ロシア人の役人が直接カルムィク人と接触するようになる。マダム・ブラヴァツキーの母方の祖父A・M・ファジェーエフが残した『回顧録』からは,彼とその家族のカルムィク体験は鮮烈な記憶として家族のあいだで共有されていたことが読み取れる。