著者
湯浅 陽子 Yuasa Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.71-86, 2010-03-28

盛唐期の杜甫(七一二~七七〇)の現在伝わっている詩文テクストは、晩唐・五代の時期に一旦かなりの部分が散佚し、北末期に再編集されたものである。杜甫詩はその後、北宋後期の黄庭堅及び江西詩派において詩作の規範となるに至るが、ここでは、杜甫詩の再編集が進められ、評価が確立されていく仁宗期を中心とした時期の受容の様相を検討する。五代後晉期の『舊唐書』文苑傳下所収の杜甫の伝記は、杜甫詩を高く評価した中唐期の元稹「唐故工部員外郎杜君墓係銘」序を引用しており、当時においても杜甫とその詩作への評価は決して低くなかったことを示している。また続く北宋初期には、王兎偁が杜甫詩を高く評価したが、孤立した例にとどまり、未だ大きな流れを形成するには至らない。北宋中期には文人官僚たちの間で杜甫詩が日常的に読まれており、杜甫を古今随一の詩人とする位置づけも、すでにかなり安定している。また、生前の苦労・唐朝への忠誠・人民の福利への関心・天地の機微に迫る詩作と等の、後世にまで継承される杜詩に対する基本的な捉え方もほぼ出揃っていると思われる。杜甫詩を、詩という形式を用いた歴史の記録という意味で「詩史」と呼ぶことがあるが、杜甫詩を唐代の史実を知る資料として用いた例は、仁宗期を中心とした時期の筆記小説などに多く指摘することができ、このような例が増加していくなかで「詩史」という捉え方が次第に固まったと思われ、その背景には、杜甫詩テクストに対する考証の精密化、また読み手の側の歴史への感心の強さが存在している。北宋仁宋期を中心とした時期に王洙らによって杜甫詩のテクストが再編集された際、より精確なテクストを求めて各テクスト間の校勘や表現の典拠等の検討が進められる過程で、その検討の内容や資料の記録が徐々に蓄積され、次第に注釈化していったと考えられる。
著者
湯浅 陽子 ユアサ ヨウコ YUASA Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.75a-89a, 2001-03-25

蘇軾の文学に及ぼした南宗禅の影響について,唐から五代にかけての禅語の一大集成であり,蘇軾自身が読んでいたと考えられる『景徳博燈録』の記述を踏まえた表現に注目して検討する。蘇軾の詩に見られる禅語を踏まえた表現の持つ傾向の一つに,ユーモアを含むという点があり,このような傾向を持つ表現は若年期から晩年までの作品の中に継続して現れ,各々の表現はそれぞれに戯れの気分を含みつつも,次第に作者の禅に対する知識の広がりと理解の深まりを窺わせるものに変化してゆく。またこれらの詩が総じて気軽な気分を伴っているのは,蘇軾の周囲の士大夫たちの間で禅や禅語の知識が広く共有されており,彼らが随分気軽な,あるいは日常的なものとして禅に接していたことを示している。彼らのなかには,禅により強い関心を示し,禅語の深い意味を求めようとする者もあり,そのような思潮のなかにある蘇軾は,晩年の嶺南への流謫生活の中で,禅的な思考を儒教や道家・道教的な思考と折り合わせ,複合しつつ詩に表現するに至っている。彼にとっての禅的境地は,単独で追求されるべきものではなく,儒・道の二教とともに内面の葛藤を静め,人生に対するより良い姿勢を模索するための拠り所とされていたと考えられる。
著者
湯浅 陽子 YUASA Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.31, pp.15-29, 2014

北宋中期の欧陽脩ちの世代から蘇賦らの世代にかけての地方官の遊楽をめぐる志向の変化の様相について、おもに記を題材として検討する。慶暦の新政の破綻から至和年間くらいまでの間、「朋黛」として批判を受け地方に左遷されていた人々が制作した官舎庭園や遊楽を記念する記においては、公人の楽のあり方、特に人民との共有というテーマが繰り返し取り上げられ、さらにこのテーマが『孟子』や『讚記』といった経書を踏まえた正当なものであることが強調されており、そこには彼等の士大夫としての自負の強さを見ることができる。また、知定州期の韓埼は、特定の時節に人民に公開するための庭園として「康柴園」を整備しつつ、同時に自分の休息あるいは修養のための場所をも区別して整備している。仁宗嘉祐年間には、欧陽脩らよりもひと世代下の人々の間の「衆楽」をめぐる思考に新たな展開が発生し、孫覺「衆業亭記」。曾撃「清心亭記」は、長官という立場にいるひとりの人物の内面の安定を希求し、君子の修養を国家を治めるための手段として位置づけているが、人民との「築」の共有については言及していない。このような発想は、蘇載が嘉祐八年の「凌虚蔓記」以降、熙寧から元豊年間にかけて多くの記のなかで繰り返し強調する、地方長官の閑居における、外物に煩わされることのない精神的修養の重視に近いものであり、その先駆けとなるものと考えることができる。哲宗熙寧四年に洛陽で引退者となった司馬光は、当地に獨榮園を整備し、自ら「獨楽園記」を制作したが、その記述は、この「獨楽」もまた『孟子』梁恵王下を典拠とし、かつこれ以前に書かれてきた「衆楽」に関する多くの湯浅陽子文章を意識したものであることを示している。すでに退職者となった司馬光には、任地の官舎に附属する庭園ではない自己の退体の地の庭園であるからこそ、「衆楽」と対比される「獨来」をその名とすることが可能だったのだろう。しかし「獨業」は、「衆楽」と対比され、より劣るものとして控えめに提示されており、ここでも知識人のあるべき楽としての「衆業」の持つ規範性は依然として強く意識されている。また、蘇拭がこれに寄せた「司馬君賓獨榮園」詩でヽ司馬光の「獨楽」を、才能と徳とを内に秘めて轄晦するものだと説明し、司馬光が引退者として個人的な閑居に引きこもろうとする態度を批判するのも、「衆柴」を意識することによるものだろう。慶暦の新政の失敗による関係者の左遷のなかで強調された地方官の理想の遊楽としての「衆楽」は、当初は為政者としての自負や理想と強く結びついたものであったが、その後彼等の流れを汲む保守派の官僚たちによって継承されていくなかで次第に変容し、より自由度を高め、個人的な、精神的なものの希求へと変化していったと考えられる。